全3回の完結編です。
全8章からなる小説。
すこし長いですが、とても良い話なので、是非最後までご視聴下さい。
孤独と絆を感じられる、涙を禁じえない話です。
BGMや効果音を使用しており、耳で聞く物語(オーディオブック)としてもお聞きいただけます。
小説家の乙一さんと似た空気を感じます。
▼その他情報—————————-
■作品に出てきた歌は下記(多分)
The Beatles - Golden Slumbers(黄金のまどろみ)
https://www.youtube.com/watch?v=AcQjM7gV6mI
歌詞の翻訳文:https://lyriclist.mrshll129.com/beatles-golden-slumbers/
■その他
サムネイルはこの作品の重要な要素である雨をイメージしてみました。
初の長編で作成に100時間以上掛かりましたが、とても好きな作品なので満足です。
録音は中編→後編→前編という順で撮ったので第2章が一番マシなレベルかも。
…..ホントは直したい部分は色々とありますが、これ以上時間を掛けられなく。
最後までお聞きになった人は、最初から聞き直してみると、物語中の序盤で良く分からなかったセリフの意味が解る様になっている部分が多かったりして面白かったりします。
もし、お楽しみいただけたなら幸いです。
Youtubeリンク先:https://youtu.be/5nP064aGMyk
元スレッド:https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/internet/14562/1370875358/
男「僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ」
169 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:34:08 ID:zmKypy7U 5 どうしたものか、夏は中々終わらない。 八月二十二日。 味気のない濃灰色の空に、味気のない薄灰色の火花が炸裂した。 遅れて、低い爆発音が空気を微かに振動させる。 遠すぎて、あまり見えない。視界が狭いおかげで、余計に見えづらい。 僕は薄暗く汚い部屋で座り込み、窓の外を眺めていた。 ゴミだらけの部屋だが、匂いはさほど気にならない。 慣れてしまったのか、それとも嗅覚が死んだのかの 区別はつかないが、別にどうでもよかった。 目と、耳と、声と、手がひとつだけ残っていれば、それでいいと思えてしまう。 170 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:34:50 ID:zmKypy7U 僕の隣には、ゴミ袋(燃えるゴミ入り)がある。凭れるにはちょうどいい 柔らかさなので、そのまま微睡んでしまいそうだ。 ふたたび爆発音が空気を揺する。 彼女も、この花火を見ているだろうか。 ぼんやりとする頭でまず考えたのは、そんなことだった。 いったいどこまで彼女に凭れかかれば満足するんだと、自分を哂った。 171 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:35:28 ID:zmKypy7U 空しい。 墓参りに行った日から、胸によく分からない空洞が出来上がっていた。 頭を垂れ、ため息を吐く度にそれが広がっているような気がする。 忘れかけていた風船も、それに合わせて膨らみ始める。 全体は良い方向に向かっているはずなのに、どうにも喜べなかった。 当たり前だ。死ぬんだから。 全体にはあっても、僕には良い方向なんて存在しない。 どこかに落下しているような気分だった。 暗い穴に落ちている最中で、底に着いたときが最期だ。 誰かが僕の手を掴んでも、それは一時凌ぎにしかならない。 重力や運命とやらには逆らえない。 172 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:36:42 ID:zmKypy7U 勝敗の分かっているゲームほどつまらないものはないとは言うが、 僕は別にそんなことはないと思う。確かにつまらないというのも理解できるが、 結果より過程ともいう。落ちている最中にだって、やれることはある。 たとえそれが自己満足だとしても、何もしないよりはマシだ。 カッコ悪かろうが惨めだろうが、どうせ誰も見ちゃいない。 とは言うものの、他人に迷惑をかけるのは間違っているんじゃないかとも思う。 彼女は今、僕といっしょに穴の底に向かっているんじゃないかと不安になった。 自分の手で壁に掴まって這い上がることができればいいのだが、 落ちている最中にその穴の壁に触れただけで、 腐った身体は吹っ飛んでしまいそうになる。 173 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:37:17 ID:zmKypy7U 誰かに救い上げてもらうか、抜け道を見つけるか、 重力をひっくり返すくらいしないと、僕に先は無い。 医者は病気のことを知らないという。 重力がひっくり返るなんて、まずあり得ない。 結局、抜け道を見つけるしかない。 物事には裏表がある。コインやカードと同じだ。 でも、裏表では駄目なのだ。 僕は側面に、もしくは裏と表の間に行かなきゃならない。 しかしまあ、具体的には何をすればいいのかがさっぱりなので、 もう思考を停止させ、味気ない最後の花火を目に焼き付けておくことにした。 174 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:37:55 ID:zmKypy7U 一分後、結局花火には集中できず、 僕は久しぶりに頭の中の僕自身と会話を試みた。 こんな気分で花火を見るなんて、悲しいやつだな。 だよなあ。 それに、僕の今の恋人は隣のゴミ袋なんだよな。最悪だ。 お似合いだな、ゴミ同士仲良くやれよ。 無口で、なかなか可愛いもんだ。 すぐ燃えそうだな。顔から火が出たら即死だ。 火なんか出ねえよ。アホ。 なに怒ってんだよ。 うるさいな。 笑えよ。 笑えねえよ。 175 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:39:32 ID:zmKypy7U 空しい。 かつてこれほどにまで空しいと感じたことはなかったように思う。 もう今日は暗い場所に行きたい気分だった。 まだ午後八時くらいなんだろうが、布団に包まることにした。 カーテンを閉める前に、もっと花火を目に焼き付けておこうと、 結局それから三分ほど花火を眺めていた。 ずっと目を見開いていると目が乾いてきたので、 思いっきり目を瞑った。涙が零れそうになる。 瞼の裏に、彼女の笑った顔が見えた。 彼女は、この花火を見ているだろうか。 176 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:40:28 ID:zmKypy7U 目を開く。 当たり前だが、彼女は目の前にいない。 そのことが、どうしようもなく悲しく思えた。 それに加え、どれだけ目を見開いても、視界は黒一色だった。 小さな爆発音は聞こえるが、どうしても光を見つけることができない。 まさに暗黒という言葉がぴったりだと、他人事のように思った。 177 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:41:24 ID:zmKypy7U なあ。どう思う? 真っ暗だな。ついに目が死んじまった。 だよな。そういうことだよな。 いずれ来るとは分かってたけど、いざとなると恐ろしいもんだ。 だよな。最悪の気分。吐きそうだ。 吐いちまえよ。もういいだろ? お前はよく耐えた。 駄目だ。まだ、大丈夫だ。 そうか。頑張れよ。 僕は吐き気を堪えながら、静かに頬を濡らした。 世界から光が消えた。瞳は暗黒に塗り潰された。 ようやく落ちている穴の底が見えてきたような、そんな気がした。 178 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:42:32 ID:zmKypy7U そのとき、どこかから携帯電話の鳴る音が聞こえた。 聞き馴染みのある音だった。彼女だ。間違いない。 僕は床を這い、必死に音の方向へ向かう。 たしか、テーブルの上に置いてあったはずだ。 ゴミ袋を掻き分け、テーブルがあるはずの場所を目指す。 目が見えなくなったのが自宅で“まだ”良かったとは思うが、 気分はどんどん沈んでいく。 テーブルの脚と思われる、硬い木に額をぶつけた。 激しい痛みを涙といっしょに流して、構わずテーブルの上を漁る。 何かが音をたて、床に散らばっていく。 ティッシュだろうが、テレビのリモコンだろうが、どうでもいい。 179 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:43:15 ID:zmKypy7U 今この電話に出ないと、もう二度と誰からも 電話がかかってこないんじゃないかと、そんな根拠も糞もない考えが脳裏を掠めた。 今取らないと見捨てられてしまうんじゃないかと、必死だった。 死に物狂いでテーブル上を漁っていると、やがて携帯電話は見つかった。 小刻みに震える電話を、大きく震える手で硬く握り締め、通話ボタンの位置を探る。 早く。早く! 早く! 「もしもし?」僕は急いで電話に出た。 しかし、返ってきたのは連続した機械的な音――通話終了音だった。 遅かった。間に合わなかった。 180 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:45:12 ID:zmKypy7U ため息を吐いてから、片手で片足を抱えて座り込んだ。 頬に冷たい何かがへばりついている。ひんやりとして、気持ち悪い。 気付いたら、子どもみたいにすすり泣いていた。 泣いたら頭がすっきりして、またゼロからやり直せるような気がした。 涙が乾いてくると、むせて、胃液を床にぶちまけそうになる。 しかし、どれだけ激しくむせても、出てくるのは乾いた咳だけだった。 まだ終わったわけではないはずなのに、立ち直ることができない。 まだ目が見えなくなっただけなのに、潰れそうだ。 そうだ、まだ終わってない。まだ、続くんだ。まだ、続けることができる。 怖い。怖いはずなのに、腹の底から変な笑みが込み上げてくる。 僕は声を上げて笑ってから、また涙をぼろぼろ零した。 どこからどう見ても頭のいかれた奴だ。 本人は至って真面目に悲しんでいるというのに。 181 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:46:03 ID:zmKypy7U ああ、頭がおかしくなりそうだ。 まだ頭がおかしくないと言い張れるほどにはまともだと思いたい。 知らなかったんだ。光が無いってのは、こういうことだったのか。 光だけではなく、未来への期待や希望まで消え去ったような気分だ。 もとからそんなもの大して持っていなかったが、今度こそ粉々にぶっ壊れた。 182 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:47:07 ID:zmKypy7U もう、自分から死ぬのも悪くないかもな。首を吊っちゃったりしてさ。 そんな考えがどこかから浮上してきた。同時に、過去のことを思い出す。 ものすごく苦しいんだよな、あれ。昔は五秒も耐えられなかったっけ。 結局諦めてぼーっとしてたら、ものすごく自分が惨めに見えてさ、意味もなく泣いてさ。 しばらくしたら、もうちょっと生きていようとか、明日から頑張ろうとか、 まるで綺麗な人間になったみたいに思ったりしちゃってさ。 結局、根っこの部分は何も変わってないのにさ。 そしたら、彼女が僕の手を掴んで、暗い部屋から引きずり出してくれて――。 183 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:48:25 ID:zmKypy7U 懐かしい。 懐かしいが、そんな思い出も、今の僕を余計に惨めに感じさせてくれるだけだった。 父の言ったとおりだ。昔から何も変わっちゃいない。きっと今なら五秒でギブアップだ。 どうしてこうなったんだろう。何かの罰か、 それとも生まれたときからそういう風になっていたのか。 神様だとか運命だとか、そんな胡散臭い言葉を怨まずにはいられなかった。 184 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:49:09 ID:zmKypy7U 乾いたと思ったら、また零れてきた。むせた。 酸っぱいものが喉を満たし、外側に出ようとしている。 必死に堪え、胃に押し返した。むせた。涎が飛ぶ。 水が欲しい。落ち着こう。考えるんだ。 僕は床を這うようにして台所に向かおうとした。 そのとき、右手に握り締めた携帯電話が、高い音を鳴らしながら、小さく震え始めた。 大きく深呼吸をして、呼吸を整えた。 それからゆっくりと通話ボタンを探り、そっと押した。 185 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:50:05 ID:zmKypy7U 「もしもし」僕はできるだけ自然に振舞おうとした。 『もしもし?』彼女の声が聞こえた。その瞬間、また崩れてしまった。『寝てた?』 「いや、起きてて花火を見てたんだけどさ」 『声が震えてるけど、もしかして、泣いてたりする?』 「花火が綺麗だったから」 『嘘』 「そうだよ、嘘だよ」僕はぶっきらぼうに言った。 「灰色の火花が綺麗に見えるやつがいるんなら、そいつは間違いなく病気だね」 『そうね』 186 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:50:57 ID:zmKypy7U 僕は深呼吸した。深呼吸というよりは、ため息だ。吐く息が震える。 「良いニュースと悪いニュースがあるんだ」 『良いニュースからお願い』 「君は今日から、僕に会うときは化粧をしなくてもいい。おめでとう」 『……悪いニュースは?』 「目が、見えなくなった」 187 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:51:09 ID:FUV0m4uI 読んでてこんなに悲しくなるのもそうはないな 支援 188 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:52:40 ID:zmKypy7U 『今から、そっちに行く』 「明日は仕事じゃないのかい」 『どうだったかな。忘れた』 「ごめんよ」 『謝らないで』 「うん。ありがとう」 『どうする? 通話状態のままそっちまで行こうか?』 「危ないから止めてくれ」 『分かった。すぐ行くね』 189 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:55:05 ID:zmKypy7U 電話から彼女の声は聞こえなくなり、 また連続した機械的な音が鼓膜を揺する。 僕は電話を投げ捨て、ダンゴムシのように床で丸まった。 ふと、永遠に彼女はここに来ないんじゃないかと、そんな考えが脳裏を過ぎった。 彼女は必ずここに来てくれると信じている自分と、 信じることを放棄しかけている自分がいる。そのことに、ものすごく腹が立った。 同時に、情けなくも感じた。 思いっきり頭を揺さぶって中身を空っぽにしようと試みたが、 激しい痛みに襲われ、それどころではない。額をなでると、腫れていた。 そういや、ぶつけたんだっけ。机の脚に。 なんだよ、机の脚って。馬鹿じゃないのか。 そんなことを思い出しただけで、また涙が零れた。 どんな小さな記憶や現象でも、今の僕を惨めにするには十分すぎる力を持っている。 思い出や目の前の暗闇、それに彼女の声が、 僕の内側で攪拌されて、黒くどろどろとした思考を作り上げていく。 190 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:55:53 ID:zmKypy7U 風船が揺れた。 彼女は、いつやってくるんだろう。吐きそうだ。 191 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:56:52 ID:zmKypy7U * 「大丈夫?」彼女の優しい声が聞こえた。 七十二時間ぶりくらいに聞いたんじゃないかと思ったが、 実際には電話を切ってから一時間も経っていないらしい。 僕は不貞腐れて「遅いよ」と言った。 そしたらまた崩れそうになった。ぼろぼろだ。 もう、とことん甘えたかった。 192 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:58:14 ID:zmKypy7U 「鍵、開いてて良かったね」彼女は言い、僕の手を握った。 「いつも開けてあるんだ」僕は言い、彼女の手を強く握り返した。 「無用心ね」 「別に盗られて困るようなものは何も無いからね。 君も勝手に入ってきてくれていいよ」 「わたしがこんな汚い部屋に進んで来たいと思う物好きに見える?」 「見える」 「よく分かってるじゃないの」きっと彼女は笑っているんだろう。 ただ、それをもう二度と見ることができないのが、どうしようもなく悲しかった。 193 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:59:01 ID:zmKypy7U 「しっかし汚い部屋ね。呆れた」 「今の僕にはぴったりだろ」 「分別だけは済んでる辺りが君らしいというか、何というか」 「僕は、くだらないことにだけは拘るやつなんだ」 「知ってる」 「知ってたんだ」 「君のことなら何でも知ってるよ」 「じゃあ今、僕が何をしたいと思っているか当ててみてくれ」 「わたしに泣きつきたい、かな?」 「正解。抱きついていいかな」 「一時間ごとに十円払ってくれるならいいよ」 「まけてくれ。お金が無いんだ」 「仕方ないなあ。無料でいいよ」 「ありがとう」声が震える。堪えられなかった。 194 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:59:41 ID:zmKypy7U 僕は彼女に抱きついて、子どもみたいに泣き叫んだ。 彼女の服の肩の部分は、涙と涎と鼻水で粘ついていることだろう。 彼女は黙って背中をさすってくれていた。 胸中では鬱陶しいと思っていたのかもしれないが、 決してそれを口には出さなかった。 彼女は今どんな気分で、何を思って、どんな顔をしているんだろう。 どれだけ考えても無駄だった。 今それを知ることはできないし、これから知ることも、永遠にない。 そう思うと、堪らない。 195 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:00:21 ID:zmKypy7U 「大丈夫だよ」 もう父や母、妹や祖母の顔も見ることができない。 あの忌々しかった灰色の朝日だって、夕陽だって、 月だって、唯一の楽しみだった雨だって、もう目に映ることはない。 これから見られるはずだった紅葉も、 雪も、桜も、遥か遠くの存在になってしまった。 信じられない。 彼女の顔も、目も、手も、胸も、脚も、もう二度と拝めないだなんて。 仕舞いには彼女の匂いも分からなくなって、 彼女の手を握ることもできなくなって、 彼女の体温も感じられなくなって、 彼女のことも忘れてしまって、最後には――。 どうすればいいんだろう。 何も考えたくない。 今は頭を空っぽにして絶叫していたい。 196 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:01:15 ID:zmKypy7U 「わたしはここにいるよ」 今の僕は人間なんだろうか。 ただ叫んで、ひたすら頬を濡らしている、人間? ただの化け物か、もしくは爬虫類みたいなもんなんじゃないかと 頭の中で爆発するようにそんな考えが拡散したが、すぐに萎んだ。 何を考えても、すぐに消えた。 もう僕は駄目なんじゃないかと思ったが、 そんな思考も一瞬よりも早い刹那で消え失せた。 197 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:01:48 ID:zmKypy7U ずっと叫んでると、仕舞いには喉が痛んでくる。 きっと彼女の耳は、それ以上に痛むのだろうが、彼女は何も言わない。 僕は乱れた呼吸を整えようと、咳き込んだり深呼吸したりを繰り返した。 なかなか鳴り止まない嗚咽を、彼女はどんな気分で聞いていただろう。 憐れに思っていたのか、同情していたのか、 ただ無心で耐え忍んでいたのか、もはや聞いてすらいなかったのか。 198 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:02:43 ID:zmKypy7U 結局、落ち着きを取り戻すまでには、たっぷり十分ほどかかった。 僕が黙り込むと、入れ替わるように彼女はしゃくりあげ始めた。 「落ち着いた? もう、大丈夫だよ」彼女は言う。 後のほうは、密着していても聞き逃してしまいそうなほど、か細かった。 服の肩の部分が、あたたかい何かで湿っていく。 彼女の吐息が、皮膚を熱くさせる。 身体がきつく締められていく。震えが伝わってくる。 僕は何も言うことができず、酷い疲労感と 柔らかい香りに包まれながら、無意識の中に沈んだ。 199 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:03:16 ID:zmKypy7U * 目を開く。光は届かない。 涙が浮かんでも、眼前に広がる暗黒は滲みすらしない。 八月二十三日。蝉が鳴いている。 今は何時なのか。 今日は晴れなのか、曇りなのか。さっぱり分からない。 僕はどこで眠っていたんだろうと、手の届く範囲を探った。 感触で、どうやらソファーの上らしいことが分かる。 座り込むような体勢で眠っていたようだ。 そのまましばらく辺りを探っていると、何かに触れた。 あたたかい。掴んで形を確認すると、人の手だった。 200 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:04:24 ID:zmKypy7U 「起きてる?」僕は訊いた。 「眠たい」すぐ近くから、彼女の声が聞こえた。 彼女は隣で、僕と同じような体勢で眠っていたらしい。 「昨日は、ごめん」 「いいよ、別に。好きでやってるんだから」 「君はいつもそれだよね」 「好きなんだから仕方ないでしょ」 「ありがとう。少し気分が楽になった」 「そっか。なら良かった」彼女は僕の頭を乱暴に撫でた。 「じゃあ、今日はどうしようか?」 201 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:05:21 ID:zmKypy7U 「どうするかの前に、まず訊きたいことがある。いま何時なんだ?」 「九時二十七分十一秒。十二秒、十三秒……」 九時だって? 久しぶりにぐっすりと眠ったことに驚いたが、もっと気になることがある。 「仕事、行かなくていいのかい」 「今日は休みになった」 「いつ?」 「さっき」 馬鹿じゃないのか、と言いそうになったが唾を飲み込んで制止した。 「僕なんかに構ってたら駄目になるよ」 「とことん駄目になってあげようじゃないの」 「馬鹿じゃないのか」我慢できなかった。 202 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:06:19 ID:zmKypy7U 「わたしはどこまでも馬鹿になれるよ」彼女の声は真面目そのものだった。 「大体ね、昨日あんなに泣きついといて、 次の日になったら『仕事行かなくていいのか』だなんて都合が良すぎるのよ」 確かにそうだ。でも僕は、もう君の足枷でありたくないんだ。 声にしようとした言葉は、喉にへばりつく粘り気のある痰に絡みとられてしまった。 でも、これでいいんだ。そう思えた。 言う必要はないのかもしれない。 言っても、彼女は「自分勝手なことを言うな」と憤るだろう。 その姿がくっきりと瞼の裏に浮かぶ。彼女の怒っている姿が。 そのことが、たまらなく嬉しい。 「なに泣いてんのよ」 「嬉しいんだ」僕は嘘を吐くのが苦手なので、正直に言った。 「僕は、ちょっと優しくされただけで喜んで、 すぐにぼろぼろ泣くようなちょろいやつなんだよ」 「はいはい。知ってるよ」彼女は素っ気ない返事をして、僕の頭の上に手を置いた。 203 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:08:00 ID:zmKypy7U それから十分間ほど、お互い身動きせずに沈黙を貫き通した後、 彼女は「部屋の掃除でもしようか」と、その沈黙を破った。 そして、僕の頭を押さえて立ち上がる。 僕は何も言えなかったが、彼女はひとりで汚い部屋の掃除を始めた。 掃除といっても、大量のゴミ袋を外に出して、 床に散らばったテレビの破片をかき集めるくらいで終わるだろう。 あとは掃除機でもかけておけばいい。 しかし、今の僕にはそんな簡単な動作もこなせない。 手伝おうと思っても、足手まといになるのがオチだ。情けない。 玄関扉が開いたり閉まったりするたびに、彼女の声が聞こえる。 きっと、わざとそうしてくれているんだろう。また泣きそうになる。 204 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:10:21 ID:zmKypy7U 数十分それを繰り返して、やがて彼女は僕の隣に座り込んだ。ソファーが弾む。 「はあー、疲れた。暑い。ちょっと休憩」 彼女は長い息を吐き出した。彼女の匂いを強く感じる。 「冷蔵庫の中から勝手に何か飲んでくれ」僕は手で彼女を扇いだ。 「何かって、お茶しか入ってなかったけどね」 「なんだ、もう見たのか」 「寂しい冷蔵庫だったねえ。まさに男の一人暮らしって感じ」 「あんまり褒めないでくれ。また泣きそうになるから」 「はいはい」彼女は味気ない返事をした後、何かを僕の頬に押し付け、 「ところで、さっき見つけたんだけど、これは何かな?」と続ける。 205 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:11:29 ID:zmKypy7U 「僕が訊きたいんだけど」 ざらついた紙の様な感触だ。それに、ちょっと埃っぽい。 「わたしとずっといっしょにいられますように、って書いてあるよ。んー?」 「ああ」すぐに思い出した。すっかり忘れていた。 そういえば書いたっけ。「七夕のときの短冊かな」 「そんな感じだね」彼女は吹き出した。 「よくこんな恥ずかしいこと書いて部屋に吊るしてられたもんだよ」 「僕はロマンチストなんだよ」恥ずかしい。顔が焼け落ちそうだ。 「女の子みたいだね」 「冷蔵庫は寂しいけどね」 「じゃあ君は、男と女のちょうど真ん中ってところかな」 「その言い方だと、僕が変態みたいに聞こえるんだけど」 「違うの?」 「酷いな」 206 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:12:39 ID:zmKypy7U 「ほら、わたしの小さい胸が好きだって前に言ってたじゃないの。変態」 「いつの話をしてるんだ」言ったような、言ってないような。 それに、それはまた別のベクトルの変態のような気がする。 「じゃあ訊くけど、今は嫌いなの? わたしの胸」 「好きだ」僕は即答した。 「やっぱり変態じゃないの」 「酷いな」 「お互い様よ」 207 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:13:20 ID:zmKypy7U 休憩後、彼女は部屋に掃除機をかけてから、 破損したテレビをもとの位置に直したらしい。 液晶画面が割れているので、テレビとしてではなくインテリアとして活用するようだ。 画面の吹っ飛んだテレビはおしゃれなんだろうか。 僕には彼女の感性がよく分からない。 「ふう、綺麗になった」彼女は、ふたたび僕の隣に勢いよく座り込んだ。 ソファーが軋む。「ちょっと休憩」 「お疲れ様」僕は団扇で彼女を扇いだ。 「まだ終わってないよ。次は君の荷物をまとめる」 「え? どういうこと?」 「君をわたしの家に連れていく」 208 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:14:38 ID:zmKypy7U 「ちょっと待ってくれ。そこまでしてくれなくても僕は大丈夫だって」 「大丈夫じゃない。君が何と言おうと連れていくよ」 「ただの拉致じゃないか」僕は脹れた。 「それから監禁だね」彼女はたぶん笑っている。「悪いようにはしないよ?」 「完全に悪者の台詞なんだけど」 「何が不満なのよ。わたしの家がいやなの?」 「いやじゃない」僕は即答した。「いやじゃないけど」 「じゃあ、さっさと君の下着のある場所を教えて」 彼女には敵わない。 209 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:15:17 ID:zmKypy7U 荷物をまとめるのに大した時間はかからなかった。 荷物といっても、今の僕にとって必要なのは衣類と携帯電話と父の財布くらいなもので、 大きな鞄は冷蔵庫と同じくらいスカスカだ。 彼女は鞄を車に持っていくために、一度外に出た。 僕はソファーに座り込みながら、考える。 また迷惑を掛けることになってしまうのか、と。 ほんとうに、何も変わっていない。僕はもちろん、彼女もだ。 彼女は、また手を引っ張って、僕を暗闇から引きずり出そうとしてくれている。 僕は、また差し伸べられた手にしがみつこうとしている。 210 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:16:53 ID:zmKypy7U 彼女は「好きでやっている」というが、ほんとうなんだろうか? 何百回も同じようなことを考えてきた。 いつも答えは出せなかった。保留だ。 訊けば終わることだが、彼女の口から出てくる言葉が 真意とは限らないと、どうしても疑ってしまう。 何度も助けてもらったのに、 見捨てられるかもしれないという不安が風船に空気を注ぐ。 だから、疑ってしまう。僕は最低だ。 見捨てられたとき、「やっぱりな」と思うことで、傷を浅く済ませようとしている。 もちろん見捨てられたくないとは思うが、未来で何が起こるかなんて全く分からない。 可能性はゼロではないのだ。限りなくゼロに近いとは信じているが、ゼロではない。 そもそも、見捨てられたら僕は死んでしまうのだが。社会的にも、肉体的にも、精神的にも。 211 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:18:24 ID:zmKypy7U 僕にはどうすることもできない。 僕に唯一できることといえば、目を閉じて、 誰かが崇めるような胡散臭い存在に祈り続けることだけだ。 どうか、僕らを救ってください――、と。 212 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:19:34 ID:zmKypy7U 「よし。オッケー」正面から彼女の声が聞こえた。 いつの間にか帰ってきていたらしい。 彼女は続けて「じゃあ、行こうか」と言うと、僕の腕を引っ張って、自身の首に巻きつけた。 「何してるのさ」目が正常だったなら、おそらく眼前には彼女のうなじがあるのだろう。 平常を装っているつもりだが、そこから漂う香りが頬を高潮させ、心臓を激しく揺する。 「車椅子めんどくさいし、おんぶしていこうかなと思って」 彼女は僕の脚を掴み、立ち上がる。「うわ。脚、細いね」 なんてこった。女の子に背負われてしまった。「大丈夫? 重くない?」 「軽すぎて、なんかわたしの知ってる君じゃないみたい」 「そっか」僕じゃないみたい、か。 あながち間違いではないのかもしれない。 見た目はもちろん、根っこの部分も腐り始めているような気がする。 213 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:20:29 ID:zmKypy7U 「ちゃんと掴まっててね」彼女は歩を進める。身体が上下に揺れる。 「分かった」腕を彼女の身体に巻きつける。 僕は彼女の背中に密着している状態になった。 心臓が早鐘を打っている。一向に鳴り止まない。むしろ感覚は短くなってゆく。 これは明らかに彼女の骨くらいにまで響いている。 彼女はどう思ってくれているのか、頭にはそのことしかなかった。 胸の辺りに、人のぬくもりが伝わってくる。 やがてそれは僕の身体中に広がり、心地良い安らぎを与えてくれた。 彼女の肩に火照った頭を置き、思いっきり息を吸い込んだ。 彼女の声が聞こえて、彼女の体温を感じられて、彼女の匂いがする。 もう、それでいいじゃないかと感じてしまう。死んでもいいのかもしれないな、と。 もう一度深呼吸すると、「くすぐったいよ」と小さな声が聞こえた。 214 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:21:01 ID:zmKypy7U しばらくすると、柔らかい椅子の上に放り投げられた。車の助手席だろう。 「もう終わりなのか」 「何が」彼女は僕の右隣で言った。おそらく運転席に座っているのだろう。 「おんぶ」 「なに、もっとしてほしかったの?」 僕は黙って頭を縦に振り、肯定の意を示した。 もう隠すのも誤魔化すのも、めんどくさい。 もう隠さなくても、誤魔化さなくてもいいんだ。 「また後でね」彼女の声に被さるように、スピーカーから音楽が流れ始めた。 僕の意思が彼女に伝わっているというのが、たまらなく嬉しい。 彼女は、きっと僕を見てくれている。 215 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:22:29 ID:zmKypy7U * 真っ暗だ。聞こえる音も変わらない。 でも、匂いが違う。 彼女の家の匂いだ。 視覚が死んでしまったせいか、 やたらと聴覚と嗅覚が研ぎ澄まされているように思える。 次は味覚か、聴覚か、嗅覚か、触覚か。 それとも、全部一気に駄目になるか。 全部飛び越えて、頭が駄目になる可能性だってある。 よく分からない。 216 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:23:06 ID:zmKypy7U 僕はふたたび彼女に担がれ、十階の部屋まで連れてかれた。 階段で上れば、より長い時間を彼女の背中で過ごすことができたのだが、 さすがにそれは彼女に悪いと思わざるを得なかったので、 黙ってエレベーターで昇ってきた。 彼女の背中で過ごしている時間は、実際には 二、三分ほどなのだろうが、もっと短く感じられてしまう。それこそ、一瞬のように感じる。 それに比べ、ひとりでいた時間は、永劫の中に閉じ込められたような苦痛を感じていた。 知らない間に、時間の感覚がおかしくなってしまったんだろうか。 217 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:23:48 ID:zmKypy7U しばらくすると、柔らかい何かの上に放り投げられた。 ソファーか? それにしては少し硬い。 「よし。じゃあまずは、わたしの布団で寝るか、ソファーで寝るかを選ばせてあげよう」彼女は言う。 「ソファーで」僕は即答した。 「何?」 「ソファー」 「んー?」 「……」彼女の中では答えは決まっているらしい。 真っ直ぐな人ってのは、なかなか厄介なところがある。 特に、僕のように根っこが腐っていて捻じ曲がりそうな人間にとっては。 「病人は病人らしく布団で寝なさいよ」彼女は嬉しげに言った。滅茶苦茶だ。 218 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:25:03 ID:zmKypy7U 「結局選べないんじゃないか。なんで訊いたのさ」 「『君の布団で寝たい』って言ってくれると思って」 「ほんとうはそうしたいところだけど、君の布団が無くなるじゃないか」 「わたしはソファーでも寝られるし、ふたり同じ布団で寝ることもできるよ」 「冗談だろ」 「わたしと寝るのはいやなの?」 「いやじゃない」僕は彼女の声に被せて言った。「いやじゃないけど」 「けど?」 「僕といっしょに寝るのは、いやじゃないかと思って」 「なんでそう思ったの?」 「だって、君が朝起きたら、隣に片腕と片足がなくて目の焦点の合ってない男がいるんだよ?」 「だから何なのよ」彼女は言い張る。 僕は踏ん張った。「そんな気持ち悪いやつに襲われるかもしれないんだよ?」 自分で言っておいて、悲しくなる。 同時に、思い出した。 今の僕は、腕と脚が無くて目の焦点の合ってない気持ち悪い野郎なんだ。 219 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:25:45 ID:zmKypy7U 「わたしのこと襲っちゃうの?」 「襲わない。襲わないけどさ」 「襲わないの?」 「襲わない」 「じゃあ同じ布団でも大丈夫だね」 「やっぱり襲うかもしれない」 「それでも同じ布団で大丈夫だね」 「もういい。分かった」彼女には敵わない。 こうなったら、もう諦めるしかない。「君の布団で寝させてもらう」 「最初から正直にそう言えば良かったのに」 220 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:26:29 ID:zmKypy7U 「君はほんとうに滅茶苦茶だな」 「滅茶苦茶じゃなくて、真っ直ぐって言ってほしいかな。まあ、そんなことよりも」 真っ直ぐな彼女は話を無理やり折り曲げた。 「そろそろお昼だよ。何か食べたいもの、ある?」 「食べたいものねえ」真っ先に浮かんだのは、くだらない冗談だった。 言ったら怒られるだろうか。どうだろう。 今なら怒られないような気もするけど、結局恥ずかしくて言えなかった。 代わりに、「言わなくても分かってるんじゃないの?」と言ってやった。 221 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:27:03 ID:zmKypy7U 「あれだよね」と彼女は呆れ気味に答える。 「あれだね」 「ほんとうに好きだよね」 「大好きだよ」 「わたしとどっちが好き?」 「迷うなあ」 「迷わないでよ」 「僅差で君の勝利かな」 「僅差なんだ」 結局、お昼はふたりで仲良くスパゲッティを頬張った。 222 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:27:48 ID:zmKypy7U * 「いざ寝るとなると恥ずかしいもんだね」 彼女がそう言うので、結局ひとつの布団の上でお互いに背を向け合って、 触れない程度の距離を保って眠ろうということになった。 身体が布団からはみ出している。おそらく彼女も似たような状況なんだろう。 「何やってるんだろう、わたしたち」 「さあ」 「なんか馬鹿みたいだよね」 「確かに」彼女が言いたいことを全部言ってくれたので、 僕はそれ以上は特に何も言わなかった。彼女もそれっきり黙り込んだ。 223 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:28:47 ID:zmKypy7U 居心地の良い沈黙が訪れる。 時計の音と、エアコンが冷風を吐き出す音が室内に響く。 「今の僕は幸せなんだろうなあ」だとか、「このままでいよう」 などと思いながらも、僕は何故か喋り出してしまった。 「君の家で寝ると、いやな夢を見るんだ」 始めてここで眠ったときのことを思い出したのだ。 「いやな夢って?」 「君が僕を見捨てて走り去っていく夢、とか」 「夢の中のわたしは酷いやつなんだね」 224 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:29:53 ID:zmKypy7U 「『わたしはレズビアンなんです』とか衝撃の告白をして走ってったんだ。 夢の中の僕は、『は?』って言った後にわんわん泣いたね」 「馬鹿じゃないの? 普段からそんなくだらないこと考えてるから夢に出るのよ」 「心外だな」 「じゃあ普段は何を考えてるっていうのよ」 「ある女の子のことを考えてるんだ。その娘のことを考えると夜も眠れない」 「馬鹿じゃないの」 それっきり、僕も彼女もだんまりだった。 仕舞いには彼女の寝息が聞こえてきた。 もちろん僕はほとんど眠れなかった。 225 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:30:23 ID:zmKypy7U * 途切れる意識の中で、ぼやけた夢を見た。 彼女が、僕から遠ざかっていく、夢―― 226 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:33:14 ID:zmKypy7U 続く 正直、長すぎたんじゃないかと猛省している 227 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:43:33 ID:FUV0m4uI 全然長くないよ すげえ読み込んじまった お疲れ 228 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 01:24:38 ID:KY3v0sKI 反省は終わりのクロニクル7巻の文字数を越えてからだ 苦なく読めて好きよ乙 229 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 08:55:42 ID:aISVZm2I 乙! 読みやすいし、長さは苦にならない。 悲し過ぎるのが難点だけど 230 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 11:06:18 ID:TYwckOkE 全く苦にならない長さだよ 所で俺の涙腺も壊れかけてるみたいだ、何故か涙が…(/_;) 231 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:47:03 ID:f9WrwJvo 6 見えなくても分かる。 僕がここに連れ去られてから約二週間が経って、彼女は疲れてきている。 たったの二週間だが、心身にかかる負担は相当なものなんだろう。 仕事が終わっても家には木偶の坊がいて、 そいつの世話をしてやらなくちゃならないのだから、たまったものではない筈だ。 仕事も上手くやっているのだろうかと、心配になってしまう。 それでも彼女は僕に疲労の色を見せまいと、 普段と同じように振舞ってくれている。 好きなアーティストの新譜が出ただとか、 好きな作家の本が出るだとか、同僚とこんな話をしたとか、 中学校のころの友人にあった(僕のことは憶えていなかったけど、なんとか思い出させたらしい)だとか、 何でもない話を冗談を交えて話してくれる。 それを聞いていると、ものすごく息苦しい。 彼女の手で圧迫されているかのように、とにかく胸が痛む。 232 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:48:27 ID:f9WrwJvo 彼女の内側には彼女ではない何かがいて、 そいつが今の彼女を無理やり突き動かしているように思える。 後戻りできなくなって、やけくそになっているんじゃないかと疑ってしまうほど、今の彼女は明るい。 僕の目が正常だったなら、きっと眼球が潰れてしまうほど眩しいんだろう。 233 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:49:58 ID:f9WrwJvo 九月九日。外では激しい雨が降っている。 「おやすみ」彼女はそう言い残し、今日も死んだように眠る。 疲弊しきった身体を無理矢理押さえつけ、意識を無意識に沈める。 ほんとうに死んでしまったんじゃないかと不安になるが、 ときどき聞こえてくる寝息が僕を安堵させ、同時に、それをたまらなく愛しく思う。 背中が触れるたびにあたたかい何かが伝わってきて、息が苦しくなる。 咳き込んで、鼻を啜った。 234 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:51:14 ID:f9WrwJvo それから目を開いて暗黒を見つめながら、無駄なことを考える。 何度も何度も何度も、考える。 彼女は何のために生きているんだ? 自分の心身を削いで、足枷を愛でて、死んだように眠る。 「大丈夫」とは言ってくれているが、ほんとうにそうなのか? 僕が言えた身ではないのは承知だが、そう考えてしまう。 果たして僕には、彼女のもとの生活をぶっ壊して、 その心身を酷使させるほどの価値があるのだろうか? 235 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:52:17 ID:f9WrwJvo 馬鹿だな。そんなの分かりきってることだろ。 そうだよな。 お前は昔からそうなんだよな。悪い方向にだけは、ぐんぐん進めるんだ。 良い方向になんて進めても、尺取虫にすら追いつけやしない。 そうだな。 ちょっとくらい信じてみたらどうなんだ。 信じてるけど、彼女が壊れたら元も子もないじゃないか。 彼女は壊れないって信じろよ。 彼女が自滅するようなことはないと信じているけれど、 僕が彼女を壊してしまう可能性は、ある。 壊すってのは、女として? 人間として? どっちもだ。 お前にそんな度胸があるのかよ。 可能性の話だろうが。 236 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:53:10 ID:f9WrwJvo じゃあ、どうするんだ? ここから出ていく。 お前にそんな度胸があるのかよ。 度胸とかじゃなくて、限界なんだ。 彼女じゃなくて、僕が耐えられなかった。風船が割れちまったんだ。 風船? 希望みたいなもんさ。 罪悪感に潰されちまう程度の希望か。 無くなったところで大したことないだろ。 そうなんだ。まともな人間ならそうだ。 ところが僕にとって、それは唯一の希望だった。 ちゃっちい希望だな。 僕にはぴったりだ。 237 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:56:42 ID:f9WrwJvo で、いつ逃げるんだ? 一週間前くらいからずっと同じこと言ってるけど。 今日。 それ聞いたの八回目なんだけど。 今日だ。 九回目。 今日だ。 十。 死んじまえ。 八十五。まあ何でもいいけど、頑張れよ。 お前もいっしょに来るんだよ。 僕は大事なものを捨てなきゃなんないんだ。大事なもののために。 238 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:58:00 ID:f9WrwJvo 布団の外に腕を伸ばし、周囲を探る。 特にこれといったものはなかったので布団から這い出し、 ひとつずつの手と脚で身体を引き摺りながら寝室の戸に向かった。 扉をさするように触りながら、ドアノブを探す。 二秒も立たずに見つかった。 力をかけて扉を開き、隙間から這い出る。 廊下には身体が溶けてしまうんじゃないかと思えるほどの熱が籠っていた。 その廊下の壁を伝い、今度は玄関を目指す。 目的地には三十秒もかからずに辿り着いた。 鍵とロックを外し、寝室のときと同じように扉を開け、隙間から外に出た。 239 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 20:58:58 ID:f9WrwJvo 扉が重い音を鳴らして、閉まる。 辺りは静寂に包まれることなく、雨が爆音で地面に撃ちつけている。 この音で彼女が起きてこないかと心配になったが、 同時に、僕が逃げ出したことに気付いてほしいとも思った。 しかし、一分ほどそこに留まっていても、扉は開かなかった。 もしかしたら、雨音で聞こえなかったのかもな。 いや、これでいいんだ。 僕は考えながら、階段を探すために壁を伝って這いだした。 240 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:00:08 ID:f9WrwJvo 階段は程無く見つかった。 深呼吸して歯を食いしばり、そこから転げ落ちた。 壁に激突し、止まる。腕と後頭部に強い痛みが通り抜ける。 ここの階段はしっかりとした壁があったはずなので、おそらく死ぬことは無い。 まあ、仮令ここに壁が無かろうと、何の問題もなかったが。 もう一度転げ落ち、九階に辿り着いた。 一階に下りるには、これをあと十八回繰り返さなければならない。 途中で死なないといいけど、すでに身体中が痛む。 241 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:00:54 ID:f9WrwJvo ほら、早く行けよ。彼女が起きてくるぞ? 頭の中の僕が哂う。 そいつを歯で潰し、そのままもう一度、転げ落ちた。 痛い。 声が漏れそうになる。 漏れたところで雨音に上塗りされて誰の耳にも届かないのだろうが、必死に堪えた。 口元を熱いものが伝った。 口の端が切れている。 これは、血か。 歯を食いしばり、八階に向かった。 242 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:01:45 ID:f9WrwJvo それからしばらくすると、自分が何階にいるのか分からなくなった。 なんにも分からなくなった。 今、自分は何故、階段を転がり落ちているのか。 何故、エレベーターで行かずに、階段なのか。 何故、僕はこんな身体なのか。 何故、光が見えないのか。 何故、彼女はここにいないのか。 頭の内側で問いかけても、返ってくるのは外側で轟く雨音だけだった。 243 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:02:39 ID:f9WrwJvo しばらく壁に凭れながら考えていると、なんとなく分かっていたような気がする。 僕がエレベーターではなく階段を転げ落ちているのは、時間を稼ぐためだろう。 彼女が僕を見つけてくれるまでの、時間を。 それと、自分を痛めつけることによって、許されようとしている。 何に対して? 分からない。 光が見えないのは、罰か。 暗い部屋に籠っていたのがまずかったのかな。 244 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:05:29 ID:f9WrwJvo ならば、どうして彼女はここにいない。分かっているのか? 彼女はここにいない。 彼女はここにいない。 彼女はここにいない。彼女はここにいない。 彼女は、ここにいない。 今、彼女は、お前の隣にいないんだ。 どうして? 僕が逃げ出したからだ。 なんで逃げ出した? 彼女を苦しませたくなかったから。 ほんとうは? 僕が耐え切れなかったから。風船が割れたから。 だから、早く逃げるんだ。 僕は腫れあがった身体を引き摺って、階段を転がった。 245 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:06:05 ID:f9WrwJvo そのとき、声が聞こえた。 声というよりは、悲鳴だった。 「ひっ」という男の声の後に、ばたばたと喧しい足音が鳴る。 おそらく、その声の主に見られたんだろう、今の僕の姿を。 驚くのも無理はない。 雨の日の夜、全身――もちろん、目も含む――を腫らして、 片手片脚のもげた化け物が階段から転がり落ちてくるのだ。 目の焦点が合っていないから、なおさら性質が悪い。 驚くなというほうが無理な話だ。 246 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:06:54 ID:f9WrwJvo 永劫とも思えるような時間が過ぎた。 しかし彼女は現れない。 仕舞いに転がる階段が見当たらなくなった。一階に辿り着いたのだ。 壁を伝い、エントランスの出口を探す。 あとひとつ扉を押せば、外だ。 普通なら一分もかからずに扉には辿り着けるのだろうが、五分ほどかかってしまった。 触れた壁を押し、動くか確かめていると、こうなってしまった。 僕は力いっぱい扉を押し、外に転げ出た。 ひんやりとした石が、心地良く感じる。 跳ねた雨粒が、身体を濡らす。 屋根の下なのに、あっという間に服が身体に張り付いた。 汗のせいかもしれない。 それでも彼女は現れない。 247 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:07:30 ID:f9WrwJvo 異常に重い身体を引き摺り、外の世界に這い出た。 激しい雨が、身体を貫くように降り注ぐ。 僕の汚い部分だけを洗い流してくれるんじゃないかと期待していたが、そんな効果は微塵も無かった。 ただ、雨は降る。 どこへ向かおうか。 途切れそうな意識で、考える。 しかし、すでに身体は限界だった。 ゴール、あるいはスタートを目前にして、動けなくなってしまった。 最後の力を振り絞って、少し進んだ。 そこで、何か柔らかいものに触れた。 すでにそれは懐かしい感触だった。 僕は、それ――ゴミ袋に寄りかかった。 乾いた音が、湿った雨音に重なる。 248 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:08:17 ID:f9WrwJvo 最後はゴミ捨て場から燃えるゴミといっしょに持ってかれて焼かれるのか。 なかなか悪くないだろ。 つまんない人生だったな。 そうでもないよ。 そうか? 思い出してみると、いろんな事があったもんだ。 そうだな。 249 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:08:51 ID:f9WrwJvo 彼女が僕を見つけてくれて、触れてくれて、捕まえてくれて―― ――僕は彼女に出会った。 彼女は僕を引きずり出してくれて、包んでくれて、癒してくれて―― ――僕は彼女に出会った。 彼女は僕を見つけてくれた。彼女は僕を見つけてくれたんだ。 あの娘のことばっかりじゃないか。他にはないのかよ。 ほんとうだな。馬鹿みたいだ。 250 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:09:26 ID:f9WrwJvo 泣くなよ。 言い損ねたことがたくさんあるんだ。お礼も言ってないし、ちゃんと謝りたいんだ。 なら、今から階段を這い上がれよ。 身体が動かないんだ。 なら、このままここで野垂れ死ねよ。 もう一度だけでいい、声が聞きたいんだ。 なら、黙って耳を澄ませろよ。ほら、聞こえるだろ? 251 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:09:58 ID:f9WrwJvo 「何してるの?」 252 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:10:35 ID:f9WrwJvo ああ、聞こえた。 雨音にかき消されることなく、はっきりと胸の空洞に、こだました。 今、彼女は僕の隣にいる。 「君こそ、こんなところで何してるのさ」 しかし僕は、この期に及んでもそんなことを言った。 口の中が痛い。苦痛に唇が歪む。 きっと今の僕は化け物じみた貌をしているんだろう。 253 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:11:23 ID:f9WrwJvo 「そんなにわたしが信用できないの?」 彼女は僕の言葉を無視し、言う。それから僕の手を強く握って続けた。 「信じて。わたしは君を置いていったりなんかしない」 僕は何も言えなかった。 「わたしはここにいるよ。分かるでしょ?」 僕は何も言えなかった。 「お願いだから、いなくならないで」 254 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:12:04 ID:f9WrwJvo 「……知ってると思うけどさ、僕は昔からこうなんだ」 ようやく喉から滑り出したのは、くだらない自虐だった。 「いくつかの選択肢が目の前にあったとき、 僕はいつも間違いを選んでしまうんだ。 仮令、百の道のうちの九十九が正解だったとしても、必ず間違うんだ。 まるで、僕の選んだ道が正解であったとしても、 進み始めた瞬間に間違いに変わってしまうように感じる。 それで僕は今、また間違えたんだ。 でも君はいつも正しい。どこに進んでも正解なんだ。 君の後を追えば、僕もそういう人間に なれると思ってたけど、それも間違いだった。 きっと、根っこの部分が違うんだろうな。 僕は君のそういうところが、ものすごく羨ましい。 そういうところに憧れて、焦がれるんだ」 255 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:12:55 ID:f9WrwJvo 「そんなことない」彼女は僕の冷たくて汚い身体を抱き寄せた。 「君は正しい。きっと今回は、これが正解なんだよ」 これが、正解――僕が、正しい? 頭の中が、ノイズのような雨音で埋まっていく。 僕には彼女の言葉の意味が理解できなかった。 256 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:15:35 ID:f9WrwJvo * 彼女は僕を抱きかかえ、階段を上り始めた。 いくら今の僕が軽いといっても濡れた布が張り付いているし、 目指すのは十階だから、彼女にかかる負担は相当のはずだ。 「エレベーターで行こうよ」僕は言った。 「やだ」彼女はそのまま階段を上がる。 身体中が痛い。身動きひとつできやしない。 しかし彼女に抱きかかえられているというのが、ものすごく心地良い。 まるで赤ん坊にでもなったような気分だった。 257 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:16:09 ID:f9WrwJvo 「ねえ」彼女は、ゆっくりと階段を上る。 「君は、どこに行こうとしてたの?」 「さあ、どこだろう。どこか遠い場所、かな」 「なんにも考えてなかったってわけだ」 「君に助けてもらいたいって、結局、頭の中はそればっかりだった」 「そう」彼女は素っ気ない返事を残すと、口を閉じた。 258 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:17:12 ID:f9WrwJvo 長くはないが、短くもない。 雨音と足音だけが響き、彼女の匂いと雨の匂いが漂う。 そんな濃い時間は過ぎ、僕らは家に戻ってきた。 「お風呂、入ろうか」彼女は僕を床に下ろし、言う。 くたびれている様子だった。 口数が少し減っているように思える。「頭洗ったげる」 「ごめんよ。身体が動かないんだ」 「じゃあわたしが服脱がすけど、いいかな」 「君がいいんなら、僕はいいけど」 「もう今更恥ずかしいも何もないよね」 「恥ずかしいに決まってるだろう」 「そうなんだ」 259 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:18:50 ID:f9WrwJvo 「『僕は大丈夫だよ』なんて言っても無駄なんだろ」 「よく分かってるじゃないの」 「でも、できるだけ前は見ないでほしいかな」 「その心は?」 「たぶん、あれだから」 「ああ、あれね。あれなら仕方ないよね」 あれってどれなんだろう、と考えていると、 彼女は僕の肌に張り付いた服と格闘を始めた。 上の服が脱げるまで、四十秒ほどの時間を使ってしまった。 次いでズボンに手をかけたところで、 僕は思わず「ちょっと待って」と言った。 260 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:19:32 ID:f9WrwJvo 「何」 「ズボンは自分で頑張ってみてもいいかな」 「別にいいけど、動くの? 腕」 「なんとか」僕は腕を適当に揺すった。痛い。 「じゃあ、その間にわたしが脱ぐ」 「やっぱり、いっしょに入るんだ」 「うん」 なんとなく予感はしていたが、いざとなると口から内臓がこぼれ落ちそうになる。 「今更恥ずかしくも何ともないって?」 「いや、恥ずかしくて死にそう」 「僕の目が見えなくて良かったね」 確かに隣で彼女が服を脱いでいるのを見ることはできないが、 そうでなくても僕は顔が焼けそうだった。 「良くない」彼女は少々怒気を孕んだ声で呟く。「ぜんぜん良くない」 また余計なことを言ってしまったようだ。 261 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:22:17 ID:f9WrwJvo 水を吸った重い布が床に落ちて、いやな音を鳴らす。 それは彼女のパジャマの上なのか下なのか、それとも下着なのか、 とにかく僕は急いでズボンと下着を脱ぎ、タオルを腰に素早く巻いた。 それから痛む身体をなんとか引き摺りながら床を這い、風呂椅子の上に座った。 数秒後、思いっきりお湯を頭から浴びせられた。身体中がひりひりと痛む。 「人の頭を洗うのって、久しぶりかも」彼女は僕の頭に両手を置きながら言う。 「へえ。誰のを洗ったんだい」 「お父さんか、お母さんか、弟か、誰だったかな。ずっと昔のことだから、忘れちゃった」 262 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:23:04 ID:f9WrwJvo 彼女は両手に泡を立て、頭を擦り始める。「君の髪、思ったより長いね」 「まあ、だいぶ長い間切ってないからね」 「もっと綺麗にすればいいのに」 「髪切ったらかっこよくなるかな」 「ないね」彼女は言いきった。 「今の君は最高にかっこ悪い。見た目とかじゃなくて、内側が。 髪切ったくらいじゃ変わらないよ」 「分かってるけど、実際に言われるとちょっと傷つくな」 「でも、かっこ悪いのと魅力がないのは違うよ。かっこ悪くても魅力がある人はいる」 「僕は?」 「さあ、どうかな」 「まあ、別にどうだっていいんだ。かっこいいとか、かっこ悪いとか、 魅力があるとか無いとか。どうせ誰も見ちゃいないんだし」 本心だったが、どうも強がりを言っているようにも思える。 自分自身でもよく分からなかった。 263 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:26:01 ID:f9WrwJvo 「それに、僕はちょっと長い髪のほうが好きなんだ」 「どうして?」 「落ち着くし、なんか、生きてるって感じがする」 「よく分かんない」 「そっか」 264 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:26:45 ID:f9WrwJvo 彼女は口を結び、僕の頭を優しく擦る。 あまりの心地良さに、微睡んでしまいそうになる。 「人に頭を洗ってもらうのって、どうしてこんなに気持ちいいんだろう」 黙っていると、ほんとうに眠ってしまいそうだった。 「そんなに気持ちいいの?」 「寝ちゃいそうだ」 「寝てもいいけど、どうなっても知らないよ」 「君が僕を風呂場に置いていくとは思えないな」 「寝てる間にわたしに襲われても知らないよ」 「君に襲われるんなら、別に僕はいいけど」 「襲ってやりたいところだけど、わたしもちょっと眠いかな」 「そっか」 265 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:27:35 ID:f9WrwJvo 彼女は手を止め、僕の頭のてっぺんに勢いよくお湯を浴びせた。 泡が頬を伝い、身体にへばりつきながら落ちていく。 右脚の皮膚の内側から木屑のようなものがこぼれ落ち、水を跳ねさせる。 それから僕は彼女に抱えられ、浴槽に投げられた。 水面に身体を打ちつけ、勢いよく水が飛沫を上げる。痛い。 何が起こったのか、とっさには理解できなかった。 冗談ではなく、ほんとうに溺れてしまうかと思った。 「な、何するのさ」鼻に水が入り込んだようで、気色が悪い。咳き込んだ。 「わたしが髪を洗ってる間、湯船に浸かってもらおうと思って」彼女は淡々と言う。 「それにしても、もっとやり方があるだろう」 「わたしなりの愛情表現よ」 「なら仕方ないか」 僕は反論を諦めて、湯船に浸かった。 あたたかくて、瞼が異様に重い。 全身から痛みと力が流れ出ていくような心地良さに包まれる。 体液さえも流れ出ていってるように感じられる。 266 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:28:59 ID:f9WrwJvo 目を閉じると、瞼の裏に彼女の笑った顔が見えた。 嬉しくなって、笑みがこぼれる。 このまま眠ったら、幸せな夢を見ることができるような気がした。 しかしそのとき、顔に大量のお湯が飛んできて、僕の意識は半覚醒から呼び戻された。 「今度は何だ」 「何だと思う?」彼女は僕の正面で言った。 「愛情表現?」 「惜しいかな」 「じゃあ何だ」 「何だろう。気付いたら飛び込んでた」 「ちょっと待って。今、君は僕の正面にいるんだよね。こっちを向きながら喋ってる」 「うん」彼女は僕の頬に触れた。僕は急いで身体を反転させた。 267 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:29:54 ID:f9WrwJvo 「こっち向いて」彼女は言う。「逃げないで」 「……どうして君は僕に良くしてくれるんだ?」僕は彼女に背を向けたまま言った。 「安っぽい答えだけど、好きだから。ほっとけない」 「……僕には君を惹きつけるような何かがあるのかな」 「そういう魅力が皆無だからこそ、わたしは君をほっとけないのかもね」 「酷いな」僕は笑い、つむじを正面に向けながら身体を反転させた。 「ちゃんとこっち見て」 僕はゆっくりと顔を上げた。 「わたしを見て」 268 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:30:36 ID:f9WrwJvo 「見えないよ」生まれたままの姿の彼女を見ることはできなかった。「見えないんだ」 「でも、わたしはここにいる」 彼女は僕に残された手を掴んだ。「分かるでしょ?」 「うん」喉に何かが詰まって、それ以上は何も言えなかった。 彼女は黙って僕の頬に手を添え、自身の唇に僕の唇を引き寄せた。 それから、ゆっくり離れた。 「こんなのじゃ証明にならないかもしれないけど、 わたしはほんとうに君のことを想ってるの。 だからってわけじゃないけど、もう一度わたしを信じてほしい」 僕は崩れて、返事をすることができなかった。 代わりに馬鹿みたいに何度も頷いて、彼女の手を強く握った。 269 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:32:00 ID:f9WrwJvo * 「だから、なんで泣くのよ」彼女は半ば呆れ気味だ。 「君が優しくするからだろうが」 きっと僕の目は真っ赤なんだろう。咳き込んで、鼻水を啜った。 270 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:32:35 ID:f9WrwJvo 風呂から上がった僕らは飽きもせずに、 一時間前と同じように布団の上で喋り合っていた。 玄関から逃げ出して、たったの一時間で もとの場所に戻ってきてしまったという事になる。 でも、僕らの中の何かは大きく変化したように思える。 今度は背中合わせではなく、向かい合って眠ることになった。 たったの一時間だが、きっとそれは、時間以上の価値のものを僕らの内側に生み出したんだろう。 彼女の言っていた「正解」とは、このことなんだろうか? 271 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:33:50 ID:f9WrwJvo 「あのさ」と僕が彼女に確認しようとがらがらの声を出したとき、 それを遮るように「ねえ」と彼女が話し始める。「抱きついていいかな」 「どうぞ」僕は咄嗟に答えた。 直後に彼女が僕の身体に抱きつき、僕に残された脚に自身の二本の脚を絡ませた。 彼女のぬくもりと匂いを、今までに感じたことのないほどに強く感じる。 何かを訊こうとしていたような気がするが、忘れてしまった。 「あーあ」彼女は長いため息を吐いた。「もっと早くこうしてれば良かった」 僕は何も言い返さなかった。言い返せない。 彼女の今の言葉に、どういう意味がこもっていたのだろう。 僕の最期までの時間が短い、という事なんだろうか。 272 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:34:36 ID:f9WrwJvo 考えてみると、そうだ。 医者の言葉がほんとうなら、もう七ヶ月しかないのだ。 目が見えなくなったときは長いと思ったものだが、今は全く違う。 もっと時間が欲しい――今は、そういう風にしか考えられない。 僕にはもっと、時間が必要なんだ。七ヶ月じゃ、足りない。 でも、どうすることもできない。 僕らは負けるために闘っているのだから。 そういうとき、人間はいつもこうするんだ。 目を瞑ってさ、こころで叫ぶんだ。 神様、お願いします。 どうか、どうか僕らを救ってください――って。 273 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:35:50 ID:f9WrwJvo 「ねえ」彼女は小声で呟く。「起きてる?」 「起きてるよ」 「雨の日って、五月のことを思い出しちゃうよね」 「五月」僕は言い、回想する。 風景も色も見えていて、彼女の笑顔を見ることができていた頃。 初めてここに来たときのこと。 僕らの距離は、今ほど近くはなかった。 皮肉なことに、この病気のおかげで僕らの距離は急速に縮まったのだ。 そいつは永遠に平行で続くはずだった僕らの道を捻じ曲げ、交えさせた。 しかし代償は大きかった。 僕の道は捻じ曲げられて、壊されてしまった。 途中からは、彼女だけの道が続いている。 きっとその道は、いつか誰か――僕ではない誰かと、交わるんだろう。 悔しいような、嬉しいような、複雑な心境だ。 274 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:36:38 ID:f9WrwJvo あの雨の日――彼女に風邪をうつされた辺りからだろうか、 僕の道が彼女の道に向かって歪んだのは。 あのとき僕らは、ほんの少しだけ素直になれたように思える。 ただ僕は、彼女の前でだけは強い人間でいようとした。 数年前に一度情けない姿を見られているのにも関わらず、だ。 つまり、そのときの僕には余裕があった。 それが間違いだったのかもしれない。 今と比べると、他人に笑われても何も言い返せない。 もっと早く、あの雨の日に言っておくべきだった。 そしたら、もっとふたりの時間が増えていたのかもしれないのに。 でも、もう遅い。遅すぎる。 275 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:37:31 ID:f9WrwJvo 「五月というと、僕にまだ余裕があったころか」 僕は自分を嘲笑してやった。 「そう」彼女は僕に抱きついたまま呟く。 「わたしが素直じゃなかった頃だね」 「なんか、ものすごく昔のことに思えるよ。 あのときは目が見えなくなるなんて、考えもしなかった」 「わたしもだよ。あのときから今まで、考えられないようなことがいっぱいあった」 「たとえば?」 276 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:38:57 ID:f9WrwJvo 「君に告白されたこととか」 「ああ」僕は回想する。七夕の次の日。 視界が灰に染まり、脚が重くて仕方なかった頃。 彼女の笑った顔が、はっきりと思い出せる。 弱々しい蛍の光に包まれた、優しい、僕の好きな笑顔が。 「君の実家に行ったこととか」 僕は回想する。墓参りに行った日。 片脚が無くなり、僕らの距離は、よりゼロに近付いた頃。 父は僕に財布を渡してくれた。 母は僕をよく見ていてくれた。 妹は僕のために悲しんでくれた。 祖母は僕にいつでもここに来ていいと言ってくれた。 彼女は僕のために闘ってくれた。 たくさんの人に迷惑をかけて、僕は今ここにいる。 277 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:39:30 ID:f9WrwJvo 「それで、今日」 回想するまでもない。「ごめん」 僕らの距離はゼロになり、立ちふさがる壁は無くなった。 あとは僕の道のゴールに向かって、ふたりでゆっくり歩いていくだけだ。 「君が逃げ出したのは確かにすごく悲しかったけど、 いっしょにお風呂に入ってキスしたってほうが考えられないよね」 「言葉にして言われると、ものすごく恥ずかしい」 「たぶん君以上にわたしは恥ずかしい」 彼女は腕に力を込めた。身体が締め付けられる。 「でも、なんか夢みたい」 278 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:40:23 ID:f9WrwJvo 「夢か」全部夢だったら、この病気は無かったことになり、 僕と彼女がここまで来たというのも無かったことになってしまうんだろうか。 そう考えると、夢じゃないだとか夢だったらいいのになんてことは言えなかった。 「夢っていうよりは、運命って言った方がしっくりくるかな」 「かっこつけた言い回しね。嫌いじゃないよ」 「僕がこの病気に罹って、君とここまで来るってのは、きっと最初から決まってたんだ」 「そうなのかもね」 「運命は変えられるとか言うけど、変わらないよなあ」 「変わらないから運命っていうんだよ。たぶん」 279 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:41:20 ID:f9WrwJvo 僕らが黙り込んでも、静寂は訪れない。 外では馬鹿みたいな音を轟かせながら、雷が鳴っている。 それに張り合うように、雨が爆音を撒き散らしている。 「今言っておかないといけない気がするから、言う」 彼女は眠らずに、また口を開く。 「悪いけれど、君が死んだとしても、わたしは生きてくからね」 「うん、是非そうしてくれ」そうは言っても、胸中は泣き出しそうだった。 やっぱり僕は死ぬんだろうなと思うと、寂しい。 必死に堪えながら、続けた。 「君にはもっといい人がいっぱいいるよ。 君は綺麗だし、魅力もある。僕とは違うんだ」 「……そんな寂しいこと言わないでよ」 「……うん」 280 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:42:17 ID:f9WrwJvo 「明日から、いっぱい思い出作ろうね」 「うん」 「わたしのこと、忘れないでね」 「うん」 「わたしも君のこと、忘れないからね」 「うん」 「来年も蛍を見にいこう」 「うん」 「君の実家にも行こう」 「うん」 「また、みんなでアイス食べようよ」 「うん」 「だから、いなくならないで。わたし、こんなの嫌だよ……」 大丈夫だよ、とは言えなかった。 僕は嘘を吐くのが苦手だから。 281 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:45:06 ID:f9WrwJvo 「あのさ」代わりに僕は彼女にひとつお願いをした。「歌を歌ってほしいんだ」 「歌?」 「もっと君の声が聞きたいんだ」 「そう」彼女は素っ気ない返事の後に咳き込み、 「ワンス・ゼア・ワズ・ア・ウェイ」とへたくそな英語で歌い始めた。 子守唄にはぴったりの歌だ。 282 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:46:17 ID:f9WrwJvo 「へたくそな英語だね」おかしくて笑いが零れそうになるが、 同時に、それはとても愛しく思えた。 その細い身体をぐちゃぐちゃに汚してやりたいほど、愛しい。 柔らかい唇を貪って、綺麗な彼女の内側に 僕の汚いそれを吐き出してやりたいほど、――愛しい? 「うるさい」彼女は僕を黙らせると、「トゥ・ゲット・バック・ホームワード」と続ける。 二分もしないうちに彼女はその曲を歌い終わったが、次の曲は歌ってくれなかった。 限界が来たのか、それともわざと歌わなかったのか。 283 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:47:04 ID:f9WrwJvo 僕は、ほとんど限界だった。 結局、僕の身体が彼女の身体に覆いかぶさることはなかった。 身体が、動かない。 そのまま瞼を下ろし、たくさんの優しい別れに包まれながら、 心臓の鼓動が止まったような深い眠りに落ちた。 284 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:49:51 ID:f9WrwJvo * 黄金の微睡みの中で、とても綺麗な夢を見た。 彼女がウェディングドレスを着て、誰かと歩いている、夢。 彼女の隣には二本の脚で立つ男がいて、ふたりは笑っている。 誰もが手を叩き、そのふたりを祝福する中、 僕は車椅子に座り、遠くから漫然とそれを眺めている。 これでいいんだ。これが僕の望んでいたことなんだ。 そう自分に言い聞かせるも、幸せそうな彼女と 顔も知らない男のことを想うと、頬があたたかい何かで濡れた。 285 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:50:34 ID:f9WrwJvo 夢というのは、目に映るものよりも 鮮明に 現実を見せつけてくれることがある。 僕は、目指したものにはなれないんだ。 286 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:52:52 ID:f9WrwJvo 7 昔から気になってたことがある。 耳が機能しなくなると、自分の声も聞こえなくなるのかということだ。 気にはなっていたが、調べてまで知ろうとは思わなかった。 でも、ようやく分かった。 自分の声は、聞こえない。 もちろん、彼女の声も。 あの日から毎日歌ってくれている歌も、もう聞けないんだ。 骨が揺れているのが分かるだけで、何も聞こえやしない。 なあ。君はそこにいるのかな。 僕の声は、君に聞こえてるのかい? 287 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:53:36 ID:f9WrwJvo 僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ。 288 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:54:56 ID:f9WrwJvo あたたかい。彼女の手が、僕の手を弱々しく握った。 柔らかくて、優しくて、心地良い。 それだけがあればいいと、そう感じさせてくれる。 彼女は今日も、僕の頭の中の小さな世界を救ってくれている。 今が何月何日で、何時何分なのか、そんな事はどうでもよかった。 彼女は僕の隣にいてくれている。 もう、それだけでいいと感じるんだ。 289 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:56:49 ID:f9WrwJvo 8 僕の中に永遠は存在しない。 永遠だと思い込んでいただけで、そんなものは無かった。 彼女との思い出も、彼女のぬくもりも、 彼女と初めて出会ったときのことも、そろそろ頭の中から消える。 仕舞いにはここがどこで、自分は誰で、 何故、光も音も匂いも味も感覚も無いのかが分からなくなる。 痛みは無いが、おそらく内臓もぐちゃぐちゃなのだろう。 両脚と片腕の無い身体はほとんど動かないし、 声を出すこともできないと分かれば、きっと記憶が壊れた僕は発狂してしまう。 290 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:57:48 ID:f9WrwJvo 彼女に関することだけは永遠だと思い込んでいた。 でも、声も匂いも、すでに思い出せない。 きっと今は、僕の手を握ってくれているんだろう。 神様が気を利かせて、この手だけを残しておいてくれたのかも。 救ってはくれなかった。 でも、分かるんだ。 彼女は僕の四肢のうち、唯一残った右手を 壊れそうなくらいに強く握ってくれてる。 感じるんだ。 目を閉じれば、 彼女のぬくもりが聞こえて、 彼女の声の匂いがして、 彼女の香りが見えるんだ。 僕は大丈夫だよ。もう、大丈夫だ。 291 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:58:41 ID:f9WrwJvo なあ、そこのあんた。 僕の声が聞こえてるんだろう? 最期の頼みがあるんだ。 僕が駄目になる前に、 まだ正気を保てているうちに、 言っておかなきゃならない。 292 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:59:11 ID:f9WrwJvo ――彼女をよろしく。 293 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 21:59:49 ID:f9WrwJvo 誰かの慟哭が、聞こえる―― 294 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 22:00:41 ID:f9WrwJvo おしまい 295 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 22:05:27 ID:OuKAsI6Q ダメだ、涙腺決壊した…… ぐいぐい読ませる作品だった。 すごく悲しい話なのにすごくよかった。 乙でした。 296 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/13(木) 22:20:02 ID:KY3v0sKI 面白かった 感動のBADENDは俺の好みだわ オリジナルで久々に良い物読めて満足よ乙 欲を言うと最後の文章で、もうちょっとお別れっぽさがほしかったなあなんて 297 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/14(金) 07:35:29 ID:0sAZRQVo 展開的にも作風から見てもハッピーエンドはあり得ないと思ってはいたが どっかで幸せな結末を期待してたわ とりあえず乙 すごい面白かった 298 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/14(金) 14:39:32 ID:gW9mqNmo 良かったって言い方でいいのか… 感動した! 299 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/14(金) 19:04:03 ID:cGjHvV.. すごく良かった。 世界観がたまらなく切ない。 乙でした。 300 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/14(金) 23:18:49 ID:w39fyBH2 すごい良かった 301 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/15(土) 01:26:09 ID:yUQf.GIw 良い悲しさだった 女側の視点で見てみたい 302 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/15(土) 20:45:46 ID:TIwpXNO6 良かった 他にも何か過去作とかない? 303 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/16(日) 06:46:12 ID:TRKoWeew 過去作とかあれば教えて欲しいな。 最初はげんふうけいさんかな?と思っていたけど全然文章が違うなって思った。 すごくよかった。おつです。 304 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/16(日) 12:54:02 ID:Zh7A4Eng 前作は姪のやつ? こっちに越してきたの? 305 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/17(月) 22:24:57 ID:pcY.1X9I 最近、かなり最悪な事があって、死にたい、死んでしまいたい、もう楽になりたい、と思っていた でも、この話を読んだら、少し我を取り戻せた 俺にはまだ 両手があって 両足があって 目も見えてて 耳も聞こえる 温度もわかる 五体満足なら、こんな俺でもまだ出来る事はあるんじゃないかって思わせてくれた これから、「死ぬ気」で頑張ってみる ありがとう 306 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/19(水) 03:16:49 ID:SxBw6IeQ >>305 くっさい感想書いてんじゃねぇよ台無しだ