全3回中『2回目』の動画です。
前回『1回目』の動画は下記から。
▼僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ【前編】
https://youtu.be/6chXoahOWmM
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全8章からなる小説。
すこし長いですが、とても良い話なので、是非最後までご視聴下さい。
孤独と絆を感じられる、涙を禁じえない話です。
字幕はオマケみたいなものなので、耳で聞く物語(オーディオブック)としてお聞き下さい。
小説家の乙一さんと似た空気を感じます。
Youtubeリンク先:https://youtu.be/RmBK0ep0Q4A
元スレッド:https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/internet/14562/1370875358/
男「僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ」
70 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:17:21 ID:fda7aQIA 3 七月七日。 カーテンの隙間から射す朝の光と、窓を通り抜けて 鼓膜を揺らす蝉の鳴き声に嫌気が差し、僕は上体を起こした。 ここから、僕の長い夏休みは始まる。 夏休みか。 今更になって、また夏休みなんてものを体験できるとは。 なんて、自分を騙すように苦笑したが、気分は暗くて重かった。 学生だったころとは、何もかもが違いすぎている。 楽しかったなあ。昔は何をして遊んだっけ。 気を紛らわすために記憶を手繰ってみたが、何も思い出せなかった。 残っていたのは、「楽しかった」という漠然とした感想だけだ。 あのころのみんなは、いまはどこでどうしているんだろうか。 きっと僕とは違って、上手くやってるんだろうな。 71 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:18:12 ID:fda7aQIA ものすごく虚しい。 胸の真ん中に穴が開いているみたいな気分だった。 そのおかげで、僕の思考は重力の二倍ほどの速さで暗闇に落ちた。 僕はこんな汚い部屋で何をしているんだろうか。 誰にもいまの姿を見られたくないからって、自宅に引き篭もって、何が楽しいんだ? 72 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:19:03 ID:fda7aQIA いや、だって聞いてくれよ。僕は頭の中の誰かに語りかけた。 僕が外を歩いてもさ、みんな僕のことを見ないで、左腕のあった辺りを見るんだ。 誰も僕なんか見ちゃいないんだって。みんなが見てるのは存在しない左腕なんだ。 だから、外に出るのはいやだ。僕の腕のあった場所を見ると、 何人かでいるやつらは決まってしかめっ面でぼそぼそと話し始める。 呪詛を吐いているように見えるよ。 で、しばらくするとそいつらは大声で笑い出すんだよな。 それを見聞きすると、ものすごく苛々するんだ。 何がそんなに面白いんだ? って訊いてやりたくなるよ。 それに、僕がここから出たって、気分が良くなるやつなんていないだろう。 だから僕はここにいる。僕は悪くない。そうだろ? そうだよな。 73 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:20:32 ID:fda7aQIA 自分に適当な言い訳を聞かせて勝手に納得する、 という行為も、そろそろ飽きてきた。何日目になるのだろう。 朝日を見るたびに自問自答をし、月が辺りを照らす度に自己嫌悪に陥る。 もううんざりだ。 それでも、死んでやろうとまでは思わなかった。 自分から死ぬのだけはごめんだ。 しかし、「まあ、どうせ死ぬんだしな」、と どうしても投げやりになってしまう。 おかげで無気力に陥る。僕は負のサイクルの内側に囚われていた。 僕はそのサイクルから逃げ出すために、 昼間はソファーに縮こまり、右手で携帯電話を 握り締めながら彼女のことを考える。 女の子かよ、とか言われても仕方ない。 未だに僕は彼女の家に泊まった日の夢を見る。 しかし、その日の寝覚めは最悪に近い。 夢というのは、自分の願いが叶う場所とか、潜在意識の現われだとか思っていた。 しかし夢というのは、目に映る景色よりも鮮明に、現実を見せつけてくることもある。 僕はいまの自分が置かれた境遇を理解するために 彼女の夢を見ているのかも、なんて、くだらないことを思った。 74 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:22:04 ID:fda7aQIA 僕はのろのろと布団から這い出て、カーテンを開けた。 目に強い光が襲い掛かる。白い光だ。 その光に対抗するように、薄目で窓の外を見た。 眼前にあったのは、僕が慣れ親しんだ町の風景とは少し異なっていた。 遥か頭上には、白い光を放つ球体がある。太陽だ。 ところどころに濃灰色の雲が浮かんでいて、空は灰色だ。 町はどこもかしこも灰色だった。車も、濃灰色だったり薄灰色だったりだ。 自分の身体も、似たような色をしている。 まるで白黒写真の中に飛び込んだような、不思議な気分になった。 しかし、僕はその不思議な気分を丸呑みにしてしまうほどの不安と恐怖に、肌が粟立った。 75 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:23:50 ID:fda7aQIA まさか。僕は寝室を飛び出し、リビングに向かった。 ありえない。リビングのテレビの電源を付けて、画面とにらめっこをする。 ちょっと待ってくれよ。薄いテレビに映っている映像もまた、灰色だった。 嘘だろ。なんとなく気付いてはいたが、認めなくなかった。 だって、こんなの、信じられない。 色がない。 僕の世界から、色が消えた。 目が、壊れ始めたのだ。 76 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:24:29 ID:fda7aQIA 僕は頭の中で、ふたたび自問自答を開始した。 このまま見えなくなるのか? 知らないよ。 いつまでもつんだ? 知らないって。 なあ、どうすりゃいいんだ。 黙れ。知らないんだって。 助けてくれよ。 知らないって言ってるだろ! ああ、糞! 答えろよ! うるさい! 死ね! さっさと死んじまえ! 77 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:25:43 ID:fda7aQIA 僕は衝動的に右手でテレビの液晶画面を叩き割った。 テレビは台から転げ落ち、派手な音を鳴らして、床に破片をぶちまけた。 右手が、じんじんと痛んだ。 涙で歪んだ視界は、灰色のままだった。 78 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:34:50 ID:fda7aQIA * たぶん、夜だ。 窓の向こうの空が濃灰色に染まっている。町はほとんど黒い。 真っ白な光が空に浮いているが、あれはおそらく月なのだろう。 輪郭がぼやけていて形が分からない。 月の隣には、布に滲んだ牛乳みたいな、潰れた白い光が広がっていた。 あれは、星だろうか。 僕は朝から携帯電話を握り締めながらソファーに座り込んで、 眼前に広がる見慣れたはずの風景を、いまも漫然と眺めている。 悲しいとか怖いとか、そういうのはほとんどなかった。 もう、どうでもよかった。 諦めに近いものが、物事に対する関心を外側からごっそりと削いでいく。 真ん中に残ったのは、生へのみっともない執着と、彼女のことだけだ。 79 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:35:49 ID:fda7aQIA 頭に叩き込んだ十一桁の数字のボタンを押すだけで 彼女の声が聞けるのに、僕はずっとそれをしなかった。 「きっと彼女も仕事で忙しかったり疲れていたりするだろうから、 電話なんかしたら悪いよな」、と自分に言い聞かせて 暗い部屋でずっと閉じ籠っていたが、そろそろ限界が近い。 内側の風船は破裂寸前のように見える。 でも風船って、意外と割れないものだと思う。 だから今のうちに、まだ僕がまともでいられるうちに、彼女に電話をかけることにした。 コール中に、どうやって視界が灰一色になったことを伝えようかと考えた。 80 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:37:52 ID:fda7aQIA 『もしもし?』電話の向こうの彼女は、いつもと変わらない様子で言う。 『久しぶりだね。どうしたの?』 「いや、なんとなくね」僕は嘘を吐くのが苦手なので、正直に言った。 「君の声が聞きたくなったんだ」 『なにそれ。ロマンチックね』 「だろう。寝ないで考えたんだ」 僕は嘘を吐くのは苦手だけど、誤魔化すのは得意なほうだと思う。 『それにしては在り来たりな台詞だね』 「酷いな。必死なのに」 彼女と話していると落ち着く。話したい言葉が喉から滑り出してくる。 さっきまでの無気力が嘘のように思えてしまう。 『ごめんごめん』彼女はこれっぽっちも悪びれた様子じゃなかった。 『で、ほんとうにわたしの声が聞きたかっただけなの?』 「いや、それもあるんだけど、他にも理由がある」 『何』 81 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:38:33 ID:fda7aQIA 「良いニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちから聞きたい?」 『なにその洋画みたいな言い回し』 「アメリカンだろ?」 『はいはい。じゃあ良いニュースからお願い』 「良いニュースはだな……」僕は良いニュースを考えた。思いつかなかった。 「ごめん。考えてなかった」 『馬鹿じゃないの? じゃあ悪いニュースはあるの?』 「あるんだよ、これが。実はさ」 色が見えなくなったんだ、と言いかけて、止めた。 わざわざこの空気をぶち壊すような話題を、 このタイミングで提供すべきではない気がする。 だから僕は代わりに、「最近肩がこるんだ」と適当なことを言った。 『で?』電話の向こうからは、なんとも素っ気ない返事が返ってきた。 82 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:40:01 ID:fda7aQIA 「いや、それだけだよ? 続きを期待されても困る」 『え? 終わり? またどっかが壊れたとか言い出すのかと思ってドキドキしたじゃないの』 「ああ。あと、最近は右足がよく攣るんだ」 それに、異常に重たいんだ、と内心で呟いた。 『知らないわよ』 「だよね」話が終わってしまったので、話題を変えることにした。「最近、どう?」 『どう? って、また随分曖昧な質問ね』 「じゃあ、仕事はうまくいってる?」 『ぼちぼち』 「模範解答だね」 『みんな似たような感じってことじゃないの。 君はどうなのよ。大丈夫なの?』 「大丈夫ではないけど、まあ何とかやってるよ」 『そっか』 沈黙。 83 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:41:46 ID:fda7aQIA 『ちょっと思い出したんだけど』沈黙を破るのはいつも彼女だ。 『わたしからも良いニュースと悪いニュースがあるの。どっちから聞きたい?』 「じゃあ、良いニュースから」 『きょうは七月七日。七夕です。星が綺麗だよ』 「知らなかったなあ」あの牛乳はやっぱり星だったのか。 『わたし、明日は休日なのです』 「おめでとう」 『以上。良いニュース終わり』 「で、悪いニュースは?」 『ごめん。考えてなかった』彼女は間髪要れずに答えた。 『それと、もうひとつだけ良いニュースがあるよ』 「何さ」 84 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:42:33 ID:fda7aQIA 『ニュースというか、個人的な話なんだけどね。 明日さ、蛍を見に行こうよ』 「蛍?」僕はとぼけて聞き返した。 『そう、蛍。ファイアフライ』 「僕は意味もなく横文字を使う人って嫌いじゃないよ」 『ありがとう。でさ、明日の夜、暇?』 「毎日二十四時間暇だよ。 最近は一日が三十時間くらいに感じる」 『羨ましい』 「そんなに良いもんじゃないよ。ほんとうに死にそうだ」 『じゃあ死ぬまでにたくさん思い出作らないとね』 「そうだね」冗談に聞こえない冗談だ。 85 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:43:29 ID:fda7aQIA 『……なんか君、丸くなっちゃったね』 「何が。腹? 背中?」 『いや、ちょっと前までなら、「僕は死なない」とか言い返してきたのにさ』 「ああ」確かにそうだった。いや、そうだったか? ああ、どうでもいいや。 「きょうはちょっと気分が良くないんだ」 『どうして?』 「なんとなくね。朝から調子が悪いんだ」 『ふーん。どうせ肩がこるとか言ってたのは嘘なんでしょ? ほんとうは何かあったんでしょ』 「何も無いよ」思わずソファーの上で小さく跳ね、苦笑いを浮かべた。 電話の向こうの彼女には悟られないようにしたつもりだった。 でも、彼女には見破られてしまったらしい。 『嘘。わたしには分かるのよ。またどっかが駄目になったんでしょ』 彼女には敵わない。「実は、そうなんだ」 86 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:44:29 ID:fda7aQIA 『やっぱりね。どこがどうなったの?』 「目が、ちょっとね」 『見えなくなったの?』 「いや、見えるのは見えるんだけど、色が見えなくなったんだ。 どこを見ても灰一色でさ。いやになっちゃうよ」 『……』電話の向こうでは、乾いた音だけが鳴っている。 やってしまった。言ってしまった。 わざわざ空気を重くするようなことを。馬鹿か。 しばらくの間、重い沈黙が続いた。 居心地の悪い、苦い空気だ。 これが永遠に続くんじゃないかと思い始めたとき、 彼女は、『そっか』と呟いた。 87 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:46:26 ID:fda7aQIA 「でも、明日は君と蛍を見に行くよ」 僕は彼女の気が変わらないうちに、急いで言った。 変に気を遣われるのもいやだ。 『うん。行こう』 「ありがとう。きょうは急に電話なんかして、悪かった」 『別にいいよ。暇だったし。こっちから掛ける手間も省けた』 「そう言ってくれるとありがたい」 88 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 21:46:57 ID:fda7aQIA 『じゃあ最後に。あんまり落ち込んじゃ駄目だよ』 「うん」 『きっと治るだとか、頑張ってだとか、 あんまり無責任なことは言いたくないけど、これだけは言わせてほしい。 自暴自棄にだけはならないでね。そうなったらほんとうに駄目になるよ』 「分かってる」 『それならいいんだけどね。 あ、きょうは七夕だし、短冊に願い事でも書いてどっかに吊るしておけば? 病気が治りますようにって。気の利いた神様が助けてくれるかもよ』 「女の子みたいな幻想を抱いているんだな、君は」 『失礼な。わたしも願ってあげようと思ったのに』 「是非お願いしておいてくれ」 『はいはい』 「じゃあ、また明日」 『うん。また明日ね』 89 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:45:44 ID:fda7aQIA 電話は切れた。 ひとりに戻ったのだと思うと憂鬱な気分だった。 余韻も糞もない。暗く深い川に放り投げられたような、 救いの無い寂しさとでも言うのだろうか。とにかく心細い。 僕は音のしなくなった電話を耳に押し当てながら、十分ほど固まっていた。 自分でも何をしたかったのかは分からない。 その間、ずっと彼女の言葉を反芻していた。 七夕。願い事。蛍。明日。…… 電話の内容を思い出していると、消沈していた気分が、ゆっくりと浮上してきた。 我ながら、浮き沈みの激しいやつだと思う。 90 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:46:20 ID:fda7aQIA 僕は彼女の言葉に突き動かされるように、 シャボン玉のように脆く淡い期待をボールペンに込めて、長細い紙に願い事を綴った。 ついでに照る照る坊主も作って、窓の近くに短冊といっしょに吊るしておいた。 子どもに戻ったみたいな気分だ。馬鹿馬鹿しくて、笑みがこぼれる。 僕はそのまま、ふわふわとした気持ちをこぼさないように 必死で抱え込み、眠りについた。 明日が待ち遠しいなんて、いつ以来だろうか? 僕の内側は、まだ純粋だった少年だったころのように、綺麗になれたのだろうか? なあ、教えてくれよ。 91 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:47:37 ID:fda7aQIA * 七月八日。町は黒い。夜だ。 輪郭を持たない月と、黒々と染まった町の間には、 幾重にも重なった灰色が広がっている。 月に近づくほど灰色は薄くなり、遠くなると濃くなる。 月から遠く離れた場所にあるこの町は当然暗いが、 街灯があるので完全な暗黒になるということはない。 しかし、僕の足元はほとんど真っ黒だった。どこに地面があるのかも見えないし、 どこからが脚で、どこからが脚じゃないのか、その境界線も見えない。 下半身は真っ黒な水に浸かっているような感じだった。 脚が重いので、なおさらそう感じられる。 92 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:49:50 ID:fda7aQIA いまの僕から見れば、街灯の光だけでは夜道は心細い。 視界の淵が黒いものに狭められてきているし、歩くのも少し踏ん張らなければならない。 まるで僕の意思とは別の何かに身体をコントロールされているような、不気味な感覚だった。 「大丈夫? 見えてる?」彼女は僕の隣を歩いている。 「見えてる見えてる」 僕の目に映ったのは、遺影のような、白黒の彼女の笑った顔だった。縁起でもない。 93 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:50:25 ID:fda7aQIA 今朝。窓の脇に吊るしておいた短冊は消え、 照る照る坊主だけが太陽の光に曝されていた。 短冊はおそらく、分別だけが済んだごみ袋だらけの 僕の部屋のどこかで息を潜めているのだろう。 しかし、そんなことはどうでもよかった。 もっと重要なことを思い出したのだ。 昨晩、電話で「蛍を見に行く」という約束をしたが、 いつどこで、僕はどうすればいいのかというのを訊き忘れていたのだ。馬鹿だ。 答えを保留する(させる)のは僕らの得意技だが、 だからといって、「なるようになるさ」というスタイルをこのまま貫き通すのも 駄目な気がしたので、結局僕は今朝、ふたたび彼女に電話をかけた。 94 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:51:23 ID:fda7aQIA 『もしもし?』電話の向こうからは、彼女の声と、何かの曲が聞こえてくる。 「もしもし? おはよう」 『おはよう。どしたの?』 「いや、訊きたいことがあってさ」 『何?』 「昨日、蛍を見に行くって言ってただろう?」 『うん』 「そのとき訊きそびれたんだけど、僕はどうしたらいいの? 夜になったら、君の家に行けばいいのかい」 『いや』彼女は即座に否定した。『いまからわたしがそっちに行く』 「え? いまから?」僕は反射的に時計の方を見た。 時刻は午前九時四十五分だった。「早くない?」 『早くない。蛍を見に行くだけじゃなくてさ、 ちょーっとだけ買い物に付き合ってほしいんだよねえ』 「ちょーっと、ねえ」当てにならない言い方だ。「ほー」 まさか、夜まで買い物とか言い出すんじゃないだろうな。 95 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:53:37 ID:fda7aQIA 『ほら、久しぶりにスパゲッティでも食べに行こうよ』 「驕り?」 『まさか』彼女は僕の声に被せて言った。 「さすがだね」 96 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:54:10 ID:fda7aQIA 『もっと褒めてもいいんだよ』 「君のその小さい胸は最高にキュートだよね」 『変態』 「酷いな」 『お互い様よ』 「君も変態ってことかい」 『わたしも酷いってことよ。馬鹿』 「もっと罵ってくれ」 『うわ。気持ち悪い』 「その言い方はちょっと傷つくかな」 『ごめん』 「こちらこそ」本題は何だったか。忘れてしまった。 97 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:54:46 ID:fda7aQIA 『もういいかな、このくだらない話。そろそろ君の家に着くんだけど』 「え? もう着くの? まだ何の準備もしてないんだけど。服すら着替えてないし」 『じゃあ、さっさと服と財布と心の準備をすること』 「君は僕のことを、荷物を引っ掛けられる財布か何かと勘違いしていないか?」 『そんなこと思ってないよ。君はわたしの』間。『大事な友達だよ』 「そうか」割と真面目っぽい返事をされたので、次に話すことが喉から上手く出てこない。 『何よ、その薄い反応。恥ずかしいじゃないの』 「いや、友達なのかと思って」僕は思ったことをそのまま口に出して言った。 『どういう意味?』 「それは」なんだか変な流れになってしまった。心臓が跳ねている。 僕は考えた。言うか、言わないか。…… 98 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:55:35 ID:fda7aQIA 『着いたよ。早く出てきて』彼女は僕の思考を遮る。 さっきのは無かったことにされたらしい。 「え? 速くないか?」 『いいから、早く。 なんなら、わたしが家に上がり込んで着替えさせてあげようか?』 「急いで着替えるよ。あと、最後に訊きたいことがあるんだけど」 『何』 「君はまさか、電話しながら運転してたのかい」 『はあ。じゃあ、早く出てきてね』無視された。電話は切れた。 「うわ、めんどくせえ」とか思われたんだろう、たぶん。 99 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:56:31 ID:fda7aQIA 午前中はひたすら彼女の欲しいものを、たっぷり二時間かけて買い漁った。 それは服だったり、本だったり、お菓子だったりで、とにかく僕らは歩き回った。 服の試着をするたびに、「似合う?」と訊いてくれるのは少し嬉しかったりするが、 僕は色が見えなくなったというのを忘れてしまったんだろうか。どれも同じように見えてしまう。 買い物袋が増える度に、僕の右手にかかる重さが増していくが、 彼女は僕の片腕がなくなったことを忘れてしまったんだろうか。 脚が重いって、いつか言ったはずだけど、それも忘れたんだろうか。 彼女はひたすら僕を連れまわした。 100 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:57:11 ID:fda7aQIA でも、腕と色がなくなっただけで、鬱々とした気分になられても困るのも事実だ。 だから僕としては嬉しかった。 今までと同じように接してくれるというのは、今の僕にとってはとてもありがたいことなのだ。 しかし、周りの人間はそうはいかない。 どこを歩いていても、何度も左腕のあったはずの場所に、幾つもの視線が刺さる。 興味のないように振舞っている人間も、必ずと言って良いほどにちらりとそこを見る。 本人は気付かれていないと思っているのだろうが、明らかに目の動きがおかしい。 一度そこを見た後は、一切そこを見ようとしないのだ。それはもう、不自然なほどに。 いやでも僕にはそれが分かる。 見る側から見られる側に行くと、苛々するほど見られる側の気持ちが理解できた。 無視しようとしても、どうしてもすれ違った人の小声が聞こえてしまう。 気分が逆立ってしまうのを止められなかった。 そんな僕に気を遣ってくれたのか、彼女はずっと僕の左側に立ってくれていた。 僕の左腕を隠すように歩いてくれた。 隣を見ても、彼女は決して暗い表情を見せない。 僕としては彼女を思いっきり抱きしめてやりたいところだったが、 同時に、とても申しわけない気持ちになり、それどころではなかった。 彼女はほんとうに楽しんでいるのだろうか? 僕が隣にいることで、いやな気分になっていないだろうか? 101 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:57:59 ID:fda7aQIA 「わたしは楽しいよ。なんでそんなこと訊くの?」彼女はスパゲッティを頬張りながら言った。 「なんか、気を遣わせてばっかりのような気がしてさ」 「そんなことないよ。君は? 君は楽しくないの?」 「いや」僕は即答した。「実は、楽しすぎて死にそうなんだ」 「ほー」彼女は微笑んだ。「お願いだから、そんなくだらないことで死なないでね」 「死ねないよ。こんなの」 「わたしもまだまだ君に言いたいことがあるからね。死なれても困る」 「言いたいことって、たとえば?」 「それは追々話していくとしよう」彼女は席から腰を上げた。 僕からお金を受け取らずに、伝票も持っていってしまった。 102 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:58:43 ID:fda7aQIA 蒸し暑い空気が漂い始める、穏やかな午後。太陽が高いところで白く光っている。 僕らは午前よりペースを落とし、午前と同じようにいろんなところを回った。 といっても、途中からはほとんど喫茶店で駄弁っていただけだが。 さすがに一日中歩き回るのは、彼女にとっても苦行なんだろう。 疲れていたのか、彼女は小さなケーキを二つ頬張った。 「よく食べるね」僕はわざとらしく目を丸くして言った。 「君は食べなさすぎ。なんか、この三ヶ月ですっごい痩せたよね」彼女はコーヒーを啜る。 「そうかな」痩せたことよりも、あれから三ヶ月も経っていたということの方が驚きだ。 103 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 22:59:33 ID:fda7aQIA 「ちゃんと食べてるの?」 「まあ、一日に一食は」 「駄目じゃん。普段は家で何してんの?」 「ずっとソファーに縮こまってるんだ。そのおかげで、お腹が減らない」 「はあー」彼女は呆れ顔だ。「ほんとうに大丈夫なの?」 「そろそろ拙いかもね。いろいろと」風船とか、身体とか、距離とか。 外に出ると、周囲は濃い灰色に包まれていた。 遠くには消えそうな白い光が、天辺にはぼんやりと薄い光が浮かんでいる。 「じゃあ、行こうか」彼女は呟いて、笑った。 104 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:00:10 ID:fda7aQIA * この高い音で鳴く生き物の正体はコオロギなのか、 鈴虫なのか、それとも名前も知らないような虫なのか。 いや、もしかすると虫ですらないのかもしれない。 機械がこの音を流しているだけなのかもしれないし、 はたまた田圃に突き刺さっている案山子が鳴いているのかもしれない。 それに加え、外宇宙からやってきた生物が発声しているという可能性も存在する。 コオロギや鈴虫に似た地球外生命体だって存在するかもしれない。 姿が見えていないのに、「これはコオロギだ」だの 「これは鈴虫だ」だの、そんな決め付けをするのはおかしいと思う。 しかし、今の僕にとって、そんなことはこの世で最もどうでもいいことだ。 コオロギが鳴こうが、案山子が泣こうが、エイリアンが喚こうが、知ったことではない。 今、最も重要なのは、隣に彼女がいて、夜道を二人きりで歩いているということだ。 105 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:00:43 ID:fda7aQIA 目の前には、長くてぐねぐねとした道が続いている。 この辺りは街灯が少なく、田圃や畑が多い。 足元の道も舗装が施されていない箇所があったりするので、少々歩きづらい。 ところどころに立っている電柱が、この風景の中に馴染めていないように見える。 言っちゃ悪いが、田舎っぽい場所だなと思った。 左手の柵の向こう側には池があり、滲んだ光が水面で揺れている。 ときどき波紋が広がり、光は震えながら潰れて、また元の形に戻る。 右手には、鬱蒼とした森林が広がっている。 奥の方に獣道のようなものが見えたが、あれは昼間に子どもたちが この辺りをうろついているんじゃないだろうかと、適当な推測をした。 ダンボールでできた秘密基地とかがあったりするんだろうなあ。胸が少し痛んだ。 106 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:01:49 ID:fda7aQIA 「着いた」彼女は立ち止まった。「ここだよ」 暗い。とにかく暗い。街灯は数百メートル先で、弱々しく光を放っている。 僕の目が正常だったとしても、これはあまりにも暗すぎると言ってもいいだろう。 蛍を見るのには最適な場所と言えるかもしれないが、 僕にとっては何か少し恐ろしい場所に見えた。 視界はほとんどゼロに近い。暗闇の一歩手前だ。 どれだけ目を見開いても、届く光の量は変わらない。 「なあ」僕は耐え切れなくなって言った。「君はそこにいるのか?」 「ここにいるよ」声は左側から聞こえてくる。「見えないの?」 「真っ暗だ。ほとんど何も見えない」 「じゃあ、わたしが何をしても、君には分からないわけだ」 107 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:03:51 ID:fda7aQIA 「頼むから、置いていったりしないでくれよ」 「わたしはそんな酷いやつじゃないよ」 「分かってるけどさ、怖いんだ」 「それなら」声は左側から背後、右側へ移動する。 「こういうのは、どうかな?」そして僕の右手が、柔らかいものに包まれた。 「こういうのって、どういうのさ」 「君がわたしの手を握っていれば、簡単にはどっかに行けないんじゃないの?」 「なるほど」これは彼女の手か。指が細くて、柔らかくて、あたたかい。 女の子の手って、こんなに柔らかいのか。 僕はそっと、彼女の手を握り返した。 「そんなんじゃ、わたし簡単に逃げられちゃうよ。これくらいしないとさ」 彼女は言い終わってから、自らの指を僕の指に絡ませて、強く握った。 僕は黙って、彼女の手を強く握り返した。 「そうそう。そんな感じ」 彼女の声は、あっけらかんとしていたが、彼女は今どんな表情をしているのだろう。 暗くて見えない。でも、暗くてよかったとも思う。 おそらく、僕の顔は林檎のような感じだろう。 彼女もそうであってほしいと、ささやかな願いを内心で呟いた。 108 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:04:59 ID:fda7aQIA しかし、どうも落ち着かない。気分が高揚している。 心臓の音が外にまで響いているんじゃないかと不安になった。 呼吸が荒くならないように、ゆっくりと空気を吐き出し、ゆっくりと空気を吸う。 どうしても肺に酸素が行き渡らなくなると、咳き込んだり鼻を啜ったりして呼吸を整える。 こういうとき、僕は大きく息を吸うと、震えてしまうのだ。 「君は昔からそうだよね」彼女はぽつりと言う。 「何が?」 「君の息の吸い方が変になるときって、だいたい緊張してるときなんだよ。知ってた?」 「え?」声が裏返った。ばれてたのか? 顔が焼けそうだ。 「ほー。そうかあ、緊張してるのかあ」彼女は絡めた指を少し緩めた。 僕は反射的に、彼女の手を強く握った。 「そうなんだよ」僕は嘘を吐くのが苦手なので正直に言った。 声が震える。「ものすごく緊張してるんだ」 109 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:05:51 ID:fda7aQIA 「どうして?」暗闇の向こうで彼女は言う。きっと笑っているんだろう。 「どうしてって、それは」 暑い。熱い。肌が焦げそうだ。心臓は破裂しそうで、喉が渇く。 「それは?」彼女は僕の手を強く握る。それから前後に軽く揺れ始めた。 「はい、言ってごらん。せーの?」 なんだか誘導されているような感じだが、逃げては駄目なような気がした。 彼女は茶化すのが得意だ。 僕は誤魔化すのが得意だが、それはもう止めにした。 「あれだ。僕は、君のことが好きで堪らないからだ」 110 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:08:22 ID:fda7aQIA 目の前で小さな光が点滅し始めた。 幾つも、幾つも光り始める。 急に視界が広がったような、心地良い感覚に襲われた。 「おー?」彼女は奇妙な声を上げる。 「なんだよ、それ」声が震える。 「やっと言ってくれたね」 「え。もしかして、知ってたのか?」 「そりゃあ、なんとなく分かるでしょう」 「なんか、調子狂うなあ」 身体から力が、肺からは空気が抜ける。右手はそのままだ。 「でも、わたしは好きとか愛してるとか、 そういう言葉ってあんまり好きじゃないなあ」 「どうして?」 「ライクは別にいいんだけど、ラブって なんか安っぽく聞こえない? 切ないとか、 そういう微妙な言葉も。中途半端というか、なんというか」 「そうかな」 111 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:08:58 ID:fda7aQIA 「だって、アイ・ラブ・ユーだよ? 普通じゃん」 「よく分かんないけど」僕は急かした。 「そんなことよりも、君は僕のことをどう思ってるのかを知りたい」 「んー? 言わなくても分かってるんじゃないの?」彼女は微笑んでいる。 「そうであってほしいとは願ってる」 「好きだよ。超好き」 「それはラブ? ライク?」 「うーん。ライク・ライク・ライクくらいかな?」 「僕にも分かるように例えてくれ」 「君と結婚してもいいくらいには好き、かな?」 彼女は言ってから、空いた右手で顔を扇いだ。「あー、恥ずかしい。焼け死にそう」 「僕は今すぐ死んでもいいくらいに嬉しいよ」 「ちなみに、『君と結婚したい』ではないのがポイントだよ」 「変なところがリアルだよね」 「でも好きだよ」 112 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:10:04 ID:fda7aQIA もう言葉は必要ない。手が触れているだけでいい。そう感じた。 暗い森から、小さな白い光が次々と現れ、すぐに消えていく。 十数年ぶりに見た。 蛍の光というのは、想像以上に弱々しい。 彼女の目を通してみたら、蛍の光は何色で、どんな風に映っているのだろう。 きっと、色は白ではなくて、弱々しくもないのだろう。 彼女は、僕とは違う。 性別とか病気ではなく、もっと深いところ、根っこの部分が違うのだ。 彼女の目を通してみたら、僕は女の子みたいに弱くて、 脆い人間に映っているのだろうか。訊くまでもない。 でも、それでもいいと思った。 だから僕は、今ここにいられるのかもしれないのだから。 僕らは黙り込んだまま、二十分ほど明滅する光を漫然と眺めていた。 113 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:10:36 ID:fda7aQIA 何かの虫が、どこかで鳴いている。耳障りな羽音が、鼓膜を揺らす。 遠くで、犬が吠えた。ぬるい風が葉を揺らし、乾いた音をたてる。青い匂いがする。 彼女が息をする音が、僕の耳元で聞こえる。彼女の匂いがする。 もう少し、こうしていたい。 と、思った矢先、彼女は「帰ろうか」と言った。 「もう帰っちゃうのか」思わず僕は零した。 「だって、蚊が多い」彼女は空いた右手で宙を扇いだ。 「ロマンチックも糞もないことを言うね」 「糞とか言っちゃうような人に言われたくありませーん」 「それもそうだ」僕は頷いた。「じゃあ、帰ろうか」 「うん、帰ろう」彼女も頷いた。 114 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:11:10 ID:fda7aQIA しかし、彼女が僕の手を引いて歩き出したとき、 僕は自分の置かれていた境遇を思い出してしまった。 そいつは脳の奥にしまっておいたそれを、無理やり引きずり出した。 背筋に冷たい汗が流れる。 眩暈がするほど息苦しい。歩くことができない。 僕は彼女の手を握りながら、その場に留まった。 同時に頭の中で、どうやって茶化そうかと必死になって考えた。 「どうしたの? 震えてるよ」 いつか来るとは分かっていたが、どうして今なんだ。 「ねえ、大丈夫?」 いや、今まで“もっていてくれた”ことに感謝するべきなのかもしれない。 115 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:12:13 ID:fda7aQIA 「あのさ、良いニュースと悪いニュースがあるんだ」 僕は声を絞り出した。「とりあえず、こっちを見てくれ」 「どうしたのよ、いきなり」 彼女は訝しげな表情を見せながらも、身体を僕のほうへ向けた。 彼女の言葉を無視し、僕は続けた。 「まずは、良いニュースから。僕は今から、君に抱きつく」 時間がない。もう倒れる。 身体のバランスは崩壊した。 「え?」 「それと、悪いニュース」僕は絡まった指を解き、 正面から彼女に抱きつくように、倒れこんだ。「右脚が動かなくなった」 116 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:12:46 ID:fda7aQIA 「なによ、それ」彼女は僕を受け止め、小さく呟く。「なんで今なのよ」 「ごめんよ」声はほとんど出ていなかったが、顔が彼女の肩に 乗っかっている状態なので、これ以上声を張り上げる必要はなかった。 聞こえているはずだ。僕の声が。 「肩を貸してくれないかな」僕は続けて言う。 「そんなもん、いくらでも貸してあげるわよ」 「ありがとう」 「だから、もうちょっとだけ、この体勢で我慢して」彼女は僕の身体をきつく抱きしめた。 痛くはない。むしろ心地良かった。 だから僕は、「分かった」と答えた。声が震える。 「ごめんね」と言う彼女の声も、震えていた。 117 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:13:18 ID:fda7aQIA * 僕らは、いったいどこまで行けるんだろうか。 118 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:14:05 ID:fda7aQIA 続く 119 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:16:03 ID:e5tFmWHc ダメだ、もう泣きそうだ。乙 120 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/11(火) 23:40:42 ID:s5BPSrO2 乙です 何か書いてる人? 121 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 00:26:11 ID:hNboRGwY 文章の暗さがリア充を呪いたがる僧侶を彷彿させる 違ったらごめんよ 面白いから期待して待ってるよ乙 122 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:52:40 ID:zmKypy7U 4 僕の目が正常だったなら、頭上の空は真っ青のはずだ。 きっと雲ひとつ無い、澄んだ青空なんだろう。 僕の出来損ないの目を通してみると、灰一色だったが。 高いところで白い光が、僕を焼き殺そうとしているんじゃないかと 思うほどの強い熱を放っている。 アスファルトからの照り返しが、昨年よりも強く肌を焼く。 車椅子に乗っていると、地面から立ち昇る陽炎になったような気分になって、 二本の脚で立っていたときよりも暑さを強く感じる。 実際にはさほど変わらないのだろうが、今年の夏は暑すぎる。 身体が腐らないことを祈っておこう。 123 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:53:27 ID:zmKypy7U しかし車椅子ってのは、どうも好きになれない。 運ばれているというか、特別扱いされているというか、 他人が勝手に車椅子の上の人を可哀想なモノ、 もしくは気持ち悪いモノ扱いしてくるのが気に入らない。 それに加え、押してくれる人にも悪い気持ちになる。 自分で進むことができればいいのだろうが、僕には腕が足りない。 その気になれば進めないこともないが、それでは異常に時間がかかってしまう。 そして最も気に入らないのが、彼女と並んで歩けないという点。 しかし、車椅子に頼らないと僕は動くことさえままならない。 もどかしくて、苛々する。 悪いのは車椅子ではないが、ついそういう風に考えてしまう。 124 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:56:17 ID:zmKypy7U 「夏の匂いがするね」車椅子を押しながら、彼女は言った。 「麦わら帽子でも被ってくれば、もっと雰囲気でたかな」 「夏の匂い」僕は復唱し、考える。 夏の匂いとは、なんだろうか。 プールの塩素の匂いとか、海の潮の匂いだろうか。 花火の火薬の匂いか? しかし、この辺りにそんなものはない。 じゃあ何だ? 蝉の鳴き声が鼓膜を揺する。 緑の匂いか? 汗の匂いか? しかし、墓石が並ぶこの辺りからは、それらのものをあまり感じられなかった。 「夏でお盆でお墓参りっていうと、この匂いだよね。 まあ、夏の匂いってのとは、ちょっと違う感じかな?」彼女は言う。 「ああ」線香から立ち昇る煙が空気に混じり、鼻腔をくすぐる。「そういうことか」 125 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:57:58 ID:zmKypy7U 八月十五日。 今日は僕の提案により、霊園に来ていた。 提案というか、彼女が「お盆休みで暇だね」というので、 僕は「実家に帰るか、お墓参りにでも行けばいいじゃないか」と答えた結果がこれだ。 彼女は「もうどっちも行った」と言うので、必然的に僕の番になった。 墓参りには毎年行っていたが、実家には全く帰っていない。 向こうも帰ってきてほしくないと思っていることだろう。 彼女はある程度の事情を知っているので、黙って僕をひとりでここに連れてきてくれた。 僕がどれだけまともになろうと、閉じこもってた時期があったという事実は無くならない。 傷は癒えても消えない。 まともになっていた筈なのにこんな姿だったら、両親は呆れるだろうか。 呆れるだろうな。 126 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:58:46 ID:zmKypy7U 「ここだ」僕は言った。 目前には、文字の刻まれた御影石が佇んでいる。隣にも等間隔で、綺麗に並んでいる。 ガラス瓶に酒は入っておらず、脇に供えられた花も枯れていた。 どうやら父も母も祖母も伯父さんも、今年はまだここに来ていないらしい。 この下にはたくさんの骨が埋まっているのだろうが、 用があるのはたったひとり分の骨だ。 曾祖父や曾祖母には会った憶えすらない。 127 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 20:59:31 ID:zmKypy7U 僕にとって、いちばん身近な故人は祖父だ。 彼はよく分からない人だった。 後に祖母から「お爺ちゃんは本が好きやったんよ」 ということを聞かされたが、本を読んでいるのを見た記憶がない。 僕のことを可愛がっていてくれたらしく、まだ小さかった僕が祖父の家を訪れると、 隠していた缶詰(猫用)と僕を引っさげて近所の川に向かったらしい。 そのころの僕が猫好きだったのかは不明だ。 「彼は隠れてやっているつもりだったらしいけど、わたしにはきっちりばれてた」、と祖母は言う。 ほとんど憶えていない。 僕が憶えているのは、僕と妹と従兄弟が遊んでいるのを 椅子に座りながら静かに眺めていた彼の姿だけだ。 128 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:00:15 ID:zmKypy7U そんな彼は、僕が小学三年生の頃に他界した。 そのときの僕には、何がなんなのか、全く理解できなかった。 心臓が停止するとほんとうに、あの高くて長い 無機質な音がなるんだなと、あとになって思い出す。 狭い病室にあの音が響くと、それに続くように次々と嗚咽が漏れ始める。 僕はそのとき、何かとても恐ろしいものを見ているような気持ちになった。 息苦しさに耐え切れなくて、病室から 後ずさるように退室したのを漫然と思い出した。 今の僕の姿を見たら、祖父はどんな顔をするだろうな。 129 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:01:07 ID:zmKypy7U 「今、『僕が死んだらどうなるか』とか考えてたでしょ」 彼女は右手に持ったプラスチックの尺で、僕の頭を軽く叩いた。 左手のプラスチックのバケツには、半分ほど水が入っている。 「なんか、目が虚ろだったよ」彼女は続けた。 「いや、違うんだ。爺ちゃんが生きてて今の僕を見たら、どう思うかなってさ」 「ふーん。お爺さんって、どんな人だったの?」 「実は、ほとんど憶えてないんだけど」僕は頭を掻いた。 「でも、いっしょにいると安心できるっていうのかな、 落ち着くというか、そんな感じの人だった。 柔らかいというか、ふんわりとしてるというか」 130 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:01:39 ID:zmKypy7U 「めちゃくちゃ憶えてるじゃないの」 「ほんとうだね」思わず吹き出した。 今更になって、次々と記憶が甦る。 「あと、僕は爺ちゃんの匂いが好きだったなあ」 「お爺さんの匂い?」 「うん。爺ちゃんの匂い。畳みたいな」 「よく分かんない」 「そうそう。僕の爺ちゃんは、よく分からない人だった」 彼女は薄く笑い、バケツを砂利の上に置いた。 少し傾いて、水が跳ねる。白く光る。 涼しい風が彼女の髪をかきあげた。砂埃が舞う。 木に茂った葉が触れ合う、乾いた音が辺りに響く。どこかで蝉が飛んだ。 131 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:02:57 ID:zmKypy7U それから、僕らは墓石を磨いた。 炎天下で力を込めて擦った。 汗が噴き出す。彼女の鼻の頭にも、玉のような汗が浮いている。 「暑い」彼女が零す。「アイスもしくはかき氷が食べたいね」 「あとで買いに行こう」僕は言い、墓石の両脇に花を添えた。 「驕り?」彼女はマッチを擦り、線香に火を付ける。 立ち昇る煙が空気中に拡散し、僕の鼻をつんと刺す。 「まさか」 「だよね」彼女は酒の入ったガラス瓶の蓋を開けながら続けた。 「君のお爺さんは、お酒好きだったの?」 「飲んでるのを見た記憶がないけど、好きだったんじゃないかと思う」 「ほんとうによく分からないね」 「君は好きなの? お酒」僕は訊いた。 「好きではないかな、あんまり飲まないし。でも、別に嫌いでもないよ」 「よく分からないな」 132 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:04:58 ID:zmKypy7U 僕らは並んで瞼を閉じ、何かに祈った。 昔のことを思い出す。家族で祖父の家に遊びに行った日のこと。 家族でここに来たこと。従兄弟と蝉を捕りに行った日のこと。 大量の人に揉まれながら歩いた祭りの日のこと。花火を見たこと。 楽しかった。楽しかった? ああ、楽しかった。 確かに楽しかったが、もう一度そこに戻りたいとは、どうしても思えない。 何故だろう? 頭を揺すり、全部忘れることにした。 次に瞼を開いたとき、視界は真っ暗なんじゃないかと不安になったが、 いつも通り、目に映るのは味気ない灰色の風景だった。 治っていてほしかったなあと、淡い希望を胸の内側で吐き出した。 「じゃあ、帰ろうか」彼女は言い、踵を返す。 彼女の動きに合わせて、僕は車椅子を反転させた。必死である。 133 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:06:36 ID:zmKypy7U そして、来た道を引き返そうとしたとき、僕が密かに恐れていたことが起きた。 苦笑いが零れる程度には、恐れていたことだ。 遠くに四つの人影が見えた。 小さい人影はこちらに近づくに連れ、どんどん大きくなる。 やがてそのうちのひとつが、こちらを指差した。 それから、髪を揺らしながらこちらに向かって走り出した。 こうなるかもしれないとは、何となく思っていた。 しかし起こったらどうするかなんて、全く考えてなかった。 さすがにないだろうと思っていたのも事実だが、 起こってしまったものは仕方ない。 134 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:07:10 ID:zmKypy7U 「ねえ、あれ」彼女は呟き、微笑む。「久しぶりに見た」 どうやら彼女も向こうに気付いたらしい。憶えていたのだ。 向こうは彼女が誰だか思い出せるだろうか。 「めんどくさいことになっちゃったなあ」 「ちょうど良かったじゃないの。どうせ言ってないんでしょ? 病気のこと」 「まあ、ね」僕は大きく息を吸い込み、吐き出す。咳き込んだ。 「緊張してる?」 「それなりに」 緊張以上に、怖い。 彼女と引き離される可能性だって、無いとは言い切れないのだ。 「人様にこんな木偶の坊を預けるなんて、それこそ恥だ」とか言うんだろう、きっと。 確かに彼女は全く関係のない赤の他人だった(とも言い切れないかもしれない)が、 今は少し事情が違う。 ようやくこうやって二人でいられるようになったのに そんなのあんまりだ、と思ったが、同時に、実際のところ彼女は 僕のことを足枷だと思っているんじゃないだろうかと不安にもなった。 しかし彼女は「いっしょに頑張ろう」と言い、僕の背中を軽く叩いてくれた。 それで十分だった。 135 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:12:05 ID:zmKypy7U 小さな人影はだんだんと人の大きさに近づき、 ゆっくりと減速して僕らの前で立ち止まった。 懐かしい顔だった。何年ぶりになるのだろう。 全くと言っていいほどに、変わっていない。 その人は興奮しているのか、恐ろしいのか、 ただ走って息が苦しいのか、大きく呼吸を繰り返している。 やがて、血の気の引いた顔をしながら、口を開いた。 「兄ちゃん、だよね?」 136 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:12:39 ID:zmKypy7U 僕は頭を掻き、「久しぶり」と言った。 彼女も笑顔を浮かべ、「久しぶり」と言う。 妹の背後には、両親と祖母が近づいてくるのが見える。 「ねえ、どうしたの? その手と、脚……」 「その手と脚って、どの手と脚だよ」僕は笑ってみせた。 「その、左手と、右脚……」 「そんなもん無いよ」 妹の表情は凍りついた。 思わずため息が零れる。変な笑みが込み上げてきた。 まさか、うちの家族と墓参りの日が被るとは。 めんどくさいことになっちゃったなあ。 137 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:13:29 ID:zmKypy7U * 「どうして黙ってたんだ」父は静かに言った。「そんなに俺が信用できないのか」 「別に、そんなつもりじゃなかった。ただ、僕の顔なんて見たくないんじゃないかと思って」 「どうしてそんなこと言うの。そんなになってまで」 母は静かに零した。真っ直ぐ僕の目を覗いている。 「『帰ってくるな。お前なんか知らん』とか言ったのはそっちじゃないか」 「確かにそうだが」父は怒気を孕んだ低い声を響かせた。「それとこれとは別だ」 「人様に迷惑を掛けるなって言うんだろ、どうせ。死ぬならひとりで死ねって」 「何言ってるの。そんなこと……」母は弱く否定した。父は黙っている。 襖を挟んだ隣の部屋に、四つの目が見えた。 小さく開いた襖の隙間で、瞬きを繰り返している。 彼女と妹だ。どちらも微妙な表情だった。 どうしたらいい、と目で訴えかけているように見える。 むしろこっちが訊きたい。思わず苦笑いを零した。 138 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:14:43 ID:zmKypy7U 霊園で両親と運命じみた遭遇をした後、僕と彼女は祖母の家に向かった。 僕はいやだと言い張ったが、彼女がそれを許さなかった。 押しに弱いというのは、なんとなく損な気がする。それに加え、 彼女は真っ直ぐな人間だということもあって、僕が有無を言う暇など無かった。 そして今、祖母の家の居間で僕と両親は、小さなテーブルを挟んで睨み合っている。 祖母は離れたところからそれを見守っている。 祖父も仏壇から見てくれていることだろう。 彼女と妹は居間から追い出されたが、どう見ても会話は筒抜けだ。 襖に防音処置を施してあるのなら話は変わってくるが。 139 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:15:42 ID:zmKypy7U 「お前、なんて病気なんだ」 「知らないよ」 「まさか、病院に行ってないのか?」父は怒りを露にして言う。 「行ったに決まってるだろ。医者もこんな病気知らないって言うんだよ」 「それで追い返すなんて、酷い医者もおるんやねえ」祖母はぽつりと言った。 「そんな馬鹿な話があるか」 「こんな馬鹿な話があるから、四ヶ月もこうやって過ごしてるんじゃないか」 言い終わってから、あれからもう四ヶ月が経っていたことに気付いた。 早いような、そうでもないような。 「四ヶ月前から、ずっとそうだったの?」母は恐る恐るといった様子で言う。 「いや。腕が無くなったのは四月の終わりで、足が無くなったのは数週間前」 「目は?」 「え?」 140 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:16:57 ID:zmKypy7U 「目も変なんじゃないの?」 母がそう言い終わると、父は「そうなのか?」と言い、僕を睨んだ。 「なんで分かったのさ」驚いた。 目について知っているのは彼女だけのはずだ。 「あんたの目がちょっと、濁ってるように見えたから」 「そっか」僕は諦めて白状した。自分に言い聞かせる意味も込めて、吐き出した。 「実は、色が見えなくて、視界が灰一色なんだ。たぶん、近いうちに見えなくなる」 「目も駄目になるのか?」 「目どころか、鼻も耳も駄目になって、 来年の四月には頭と心臓もお陀仏らしいよ。おめでとう」 重々しい沈黙が訪れる。 父は目を瞑り、腕を組みながら考え事を始めた。 母が長いため息を吐いて、机に突っ伏した。 141 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:17:50 ID:zmKypy7U どうしようもないのだ。 父が憤慨しようと、母が落ち込もうと、どうにもならないのだ。 僕が何か行動を起こしたところで、何かが変わるわけじゃない。 なのに、周りは勝手に落ち込んでいく。暗いほうへと自ら向かう。 必死に冗談や皮肉を言っても、できるだけ自然に振舞っていても、 僕を取り巻くものとの温度差が生じてしまう。 同情しているのか何なのか知らないが、これ以上僕を落ち込ませないでほしい。 別に慰めてほしいわけではないのに、勝手にしんみりとした空気を作り上げやがって。 僕が悪いのか? 僕がこんなだから、みんな苛々してるのか? 腕が無いから何なんだよ? 脚が無いから何なんだよ? 目が変だから何なんだよ? 身体の一部が欠けたら、今までの僕とは違うのか? ああ、苛々する。 142 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:18:45 ID:zmKypy7U 「もういい。この話は置いておこう」父は言う。 その言葉を聞いたとき、僕の得意技の「答えを保留させる」というのは 父からの遺伝なのかもしれないと思った。表情には出さず、僕は小さく笑った。 「あの娘は何なんだ?」 父は襖の隙間からこちらを覗く彼女のほうを見ながら言った。 それに続き、「忘れちゃったの?」と、母。 さっきまでは机に突っ伏していたが、もう立ち直ったらしい。 浮き沈みの激しい性格は、母からの遺伝か。笑うしかない。 「昔、よくいっしょに遊んでた**ちゃんじゃないの?」 「そうだよ」 「ああ、あの娘か。大きくなったもんだ」 「当たり前だろ。僕と同い年なんだから」 「べっぴんさんやねえ」祖母はぽつりと言った。 143 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:19:37 ID:zmKypy7U 「で、お前はまだあの娘に寄りかかってるのか」 父は呆れ顔で、ため息を吐き出した。 「……」何も言い返せない。実際、そうなのだから。 未だに彼女がいないと僕は駄目なんだ。 「何年か前にも助けてもらって、また助けてもらってるのか」 「……」気に障る言い方だな、と思った。苛々する。 暗いところに閉じこもった僕を引きずり出してくれたのは、彼女だ。 あのとき僕らは、まだ高校生だった。父の言う、「何年か前」の話だ。 彼女には感謝してもしきれない。 思えばあのときから僕は寄りかかりっぱなしなのかもしれない。 144 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:21:30 ID:zmKypy7U 「ほんとうに情けない」 「……」そのとおりだ。 「昔と何も変わってないじゃないか」 「……」そのとおりだ。 「お前はいつになったらひとりで立てるんだ?」 「……」もう二度と立てないって。見りゃ分かるだろ、糞。嫌味か? 「あの娘に悪いとは思わないのか?」 「思ってるに決まってるだろ!」僕は力任せに手をテーブルに叩き付けた。 居間は、ふたたび静まり返る。猛烈な虚脱感に全身を包み込まれた。 時計の針が僕を急かすように、大きな音を鳴らしながら時間を刻んでいる。 145 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:22:01 ID:zmKypy7U 考えないようにしてた。 僕がひとりでターミナルケアを受けていれば、 少なくとも僕の知り合いに迷惑を掛けることはなかったはずだと。 理解していたのに、考えないようにしてた。 ひとりになればすべて解決するということも、 自分の我侭に無理やり彼女を付き合わせているだけということも。 もう隠すのは疲れた。僕の鎧を剥いでくれ。 どうしても聞いてもらいたいんだ。 彼らが僕と血の繋がった家族だからか何なのか、 よく分からなかったが、とにかく言ってしまいたかった。 僕が毎晩、どんな気持ちで布団に包まっているのかを。 僕が毎朝、どれだけ安堵するかを。 僕が毎日、どれほど怯えているかを。 僕と、彼女のことを、父と母に、妹と祖母に、聞いてもらいたい。 146 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:23:24 ID:zmKypy7U しかし、僕が顔を上げ、話し始めようとしたとき、それを遮るかのように父が口を開いた。 「もういい、分かった。お前は外に行って来い。今度はあの娘と話がある」 「なんで僕が外に出なきゃいけないのさ。聞かれちゃ拙いような話なのか?」 「そうだ」 「何だよ、それ」 「おい」父は僕の言葉を無視し、妹を呼ぶ。「こいつといっしょに散歩にでも行ってこい」 「分かった」襖の向こうから、くぐもった声が鳴った。 「散歩って、僕は犬かよ」 147 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:24:59 ID:zmKypy7U 「よし、じゃあ行こうか!」妹は襖を勢いよく開け放ち、素早く僕の腕を掴んだ。 「ちょ、ちょっと待ってくれよ。彼女は無関係だろ」僕は父に向かって言った。 が、それに答えたのは彼女だった。「ここまで来ておいて無関係はさすがにないよね」 彼女はその場から立ち上がり、居間に向かって歩を進め始める。 長いスカートが、ゆらゆらと揺れた。 「わたしも少し話したいことがあるの。心配しなくても、わたしは大丈夫だよ」 「だといいんだけど」 「はい、早く行くよー」妹は僕をそのまま玄関まで引き摺っていった。 「いってらっしゃい」祖母は微笑んだ。他人事だと思って、暢気なもんだ。 148 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:26:11 ID:zmKypy7U * カラスの鳴き声にかき消されそうになるほど小さな鳴き声だが、 確かに聞こえる。どこか遠くで、ひぐらしが鳴いている。 夏の日の入りの時間は遅いので、外は、まだ明るい。 妹と、車椅子に乗った僕は、石の敷かれた道から立ち昇る陽炎の中を歩いている。 道の脇にある大きな汚い川には輪郭がギザギザになった太陽が映っていて、 水面から反射する光が、やけに眩しく感じられた。 水中の魚の鱗が、はっきりと浮き出て見える。 もやもやする。不安と暑さによる苛々が脳を覆っていて、思考がまとまらない。 父は何を考えてるんだ? いったい父は彼女に何を吹き込むつもりなんだ? 僕から彼女を遠ざけるつもりなのか? まさか、思い出話に花を咲かせるわけではあるまいだろう。 149 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:27:37 ID:zmKypy7U じゃあ何を話しているんだ? 頭の中の考えは陽炎のようにゆらゆらと曖昧模糊なもので、僕に答えを教えてくれない。 もう止めだ。考えても仕方ない。 もし彼女がいなくなったとしても、それは僕が悪いんだ。 迷惑をかけっぱなしで、うんざりしているかもしれない。 そのことに気付けなかった僕が悪いんだ。諦めるしかない。 彼女にはまだ先があるんだ。 明るい場所を歩くことができる。 こんな足枷にてこずっている場合ではないのだ。 でも僕は信じてる。 まさに藁にも縋るような想いだったが、 神様なんて当てにならないものに祈るよりは数百倍マシだと思った。 150 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:28:31 ID:zmKypy7U 「兄ちゃん、軽くなっちゃったね」妹は車椅子を押しながら話し始めた。 「わたしより軽いんじゃない?」 「当たり前だ」僕はため息を吐いた。「お前よりは軽いよ」 「それはつまりどういう意味? わたしが太ってるって言いたいのかな? んー?」 「別にそんなこと言ってないじゃないか」 どちらかというと、妹は細い方に分類されると思う。 「そういう風にしか聞こえないんだけど」 「そりゃ悪かった」 151 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:31:11 ID:zmKypy7U 妹は今年で高校二年生になっていた。留年もしていないようだ。 友達もいるらしく、どうやら明るい場所を歩いているようなので安堵した。 しかし服装がどうも中学生のころから代わり映えしないように見える。 今日も半袖シャツの上にパーカーを羽織り、 クロップドパンツという出で立ちだった。 もうちょっと服装に気を遣ってもいいんじゃないかと思う。 僕も言えた身ではないが。 毎日会っていたころは何とも思わなかったが、 久しぶりに話してみると中々楽しいものだ。 しかし僕は、「情けない僕の姿を見て、妹は何を思ったのだろうか」と、 今頃になって過去のことを思い出していた。 もう無かったことになっているのか、妹は普通に話しかけてくれる。 わざわざ訊くようなことではないが、どうしても確認しておきたかった。 「なあ」と僕が口を開いたとき、 それを遮るように「ねえ、どっか行きたい場所ある?」と妹が話し始める。 妙な既視感を覚えた。ついさっき似たようなことがあったような。 僕の家族はみんなこうなのか? 苦笑いが込み上げる。 なんだか、どうでもよくなってしまった。 152 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:33:25 ID:zmKypy7U 「ねえ、聞いてる?」 「聞いてる聞いてる。川の脇とか、橋とかがいいな」 「つまり、このままでいいの?」 「うん」僕は川に視線を滑らせながら言う。「ここ、相変わらず汚い川だよなあ」 「そうだねえ」 153 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:34:04 ID:zmKypy7U たとえ濁った緑色をしていようと、泥が混じっていようと、 灰一色だろうと、水を見ていると落ち着く。 昔から海(というか砂浜)はあまり好きではなかったが、川や雨は好きだった。 川に映る風景だとか、そこで泳ぐ魚だとか、流される葉っぱとか、 雨が作り出す水溜りや波紋を、頭の中を空っぽにして眺めてるのが好きなのだ。 思えば、ものすごく時間を無駄にしていたのかもしれない。 おそらく余命が残り少ないことが分かっていても止めなかっただろうとは思うが。 耳に滑り込んでくる川のせせらぎが心地良い。 時折交じるカラスの鳴き声も、ひぐらしの鳴き声も、 子どもたちの笑い声も、とても綺麗なものに聞こえる。 目を閉じて、もっと耳を澄ませて聞いておこう、と思った。 音を、声を聞くんだ。 154 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:35:09 ID:zmKypy7U 「ねえ。あたし達、いつまで散歩してればいいのかな」妹は、また話し始める。 「知らないよ。律儀に散歩しないで、別に家の前で待ってれば良かったのに」 「確かに」 「馬鹿か」呆れた。 155 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:35:44 ID:zmKypy7U 「はあ、暑い」唐突に話が変わった。「アイス食べたい」 「お金は持ってないぞ」 「えー。さすがにアイス二本買うくらいはあるでしょ」 「いやいや。お前は今以上に僕の生活を苦しめるつもりか」 「そんなに大変なの?」 「一日にひとつのカップ麺しか啜れない程度には大変だ」 「ふうん、それは大変だね。だからこんなに軽いんだ」 「他人事だと思って」 「ごめんごめん。じゃあ、アイス買いにいこう。あたしの奢りだよ。感謝してね」 「はいはい」 車椅子のスピードが上がった。風が気持ちいい。 妹は必死こいて車椅子を押してくれているのだろう。 そのまま川沿いの道を真っ直ぐ進み、しばらくしてから左に折れた。 この辺りは建物の影になっていて、まだ暑さはマシだったが、 走っている妹にとってはそんなこと関係ない。 156 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:36:55 ID:zmKypy7U 「なんで走るんだ? もうちょっとゆっくり行けばいいのに」僕は思わず零した。 「いいの。走りたいの」 「何だよ、それ」 「兄ちゃんには分からないだろうね、この感じ。よく分かんないの」 「よく分からないな」 「いいんだよ、分からなくて。 きっと一生分からないだろうし、分からない方がいい」 妹は言い切った。少し声が詰まっているように聞こえる。 僕は素っ気なく「そっか」と前を向いたまま言った。 振り返ってはいけない気がする。 胸が苦しい。 何に対してかはよく分からないが、 とても申しわけない気持ちに陥った。 157 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:38:54 ID:zmKypy7U * 妹は駄菓子屋でアイスを六本買って、車椅子を押しながら 家までの道をふたたび疾走した。 おそらく全身汗だくで、顔は真っ赤になっているだろう。 僕は一度も振り返ることができなかったので、実際のところは違うのかもしれない。 家の前に戻ってきても、空はまだ明るかった。 ひぐらしもカラスも鳴いている。 ほんとうに時間が経ったのかと思うほど代わり映えしない風景だ。 妹は息を切らしながら、思いっきり玄関扉を開け放ち、 ずかずかと三和土を踏みつける。 そして「ただいまー!」と、思いっきり叫んだ。 ほとんど間もなく、「おかえりー」という祖母の声が返ってきた。 「お前、今日は何か変だな」僕は言った。 「誰のせいだと思ってんの」 妹はそう返し、僕の腕を掴んで居間の前まで引き摺っていった。 もう少し丁寧に扱ってもらいたいものだ。 そして居間への襖をゆっくりと開け、祖母に「終わった?」と訊く。 158 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:39:42 ID:zmKypy7U 「もう終わるんじゃないかねえ」そう言ってから祖母は笑顔で僕のほうを向き、 「あんた、いい娘に出会えたんだねえ。お婆ちゃんは嬉しいよ」と、言った。 「うん。あの娘は、ほんとうにいい娘なんだ」僕を何度も救ってくれているんだ。 惚気とか自慢とか、そういうのではなく、本心だった。 「おうおう、惚気ちゃって」妹が茶化す。 「うるさいな」 「あんたたち、ほんとうに仲が良いねえ」 「うん。あたしたちは、ほんとうに仲がいいんだ」 妹は言ってから僕の顔を見て、吹き出した。 こいつ、真似やがった。なかなか恥ずかしい。 159 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:40:13 ID:zmKypy7U 「真似すんなよ」 「お、分かった? 似てたでしょ」 「いや、全然」 「冷たいなあ。怒らないでよ」 「ほほほ」、と祖母が笑った。笑い事ではない。 そのとき襖がゆっくりと開き、彼女が顔を覗かせた。 襖の向こう側には、父と母の姿が見える。 どうやら、僕に聞かれたくない話は終わったらしい。 160 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:40:50 ID:zmKypy7U 「目が真っ赤だけど、大丈夫?」僕は訊いた。 「誰のせいだと思ってんの」彼女は小声で答える。 「ごめん」表情が緩んだ。 「なに笑ってんのよ」 「さっき妹にも全く同じことを言われたんだ」 「なら、きっと妹ちゃんの目も真っ赤ね」 「まさか。あいつに限ってそんなこと」 僕は振り返って妹の目を見ようとしたが、即座に目を逸らされた。 「仲良いんだね、相変わらず」 僕は「そうだね」と適当な返事をし、息を吐き出してから、 「僕らは、ほんとうに仲が良いんだ」と言った。 妹は小さく吹き出した。 161 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:41:40 ID:zmKypy7U それから僕ら(父と母を含む)は、微妙に溶けたアイスを零さないように頬張った。 居間で机を囲みながらアイスを食べるという光景は、 はたから見ればなかなか奇妙な感じだと思う。 でも、悪くなかった。 さっきよりも雰囲気が柔らかく感じる。彼女のおかげなんだろう。 いったい、僕がいない間にどんな話をしたんだ? 結局、僕はどうなるんだ? このままでいられるのか? 実家送りか、それとも病院送りか? それだけはいやだ。 でも、その可能性のほうが高い。どうにもならない。 そろそろ諦めて、歯を食いしばらなければならないのかも。 もしくは、自宅でひとりきりになるか。あり得る。 でも、今更ひとりになったところで、別にどうってことないよな。 じゃあ、暗い部屋で野垂れ死ぬのか。それも悪くないかな。 ため息が零れそうになるが、堪えた。 162 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:42:18 ID:zmKypy7U 「兄ちゃん。アイス溶けてるよ」 「え、ああ」視線を下ろすと、ズボンに溶けたアイスが張り付いていた。「やっちまった」 「あーあー」「あーあー」 彼女と妹がほとんど同時に声を上げた。 それを聞いた両親は顔を見合わせたあと、少し笑ったように見えた。 163 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:43:32 ID:zmKypy7U * 「そろそろ、帰ろうか」彼女は立ち上がり、言った。 「いっしょに帰ってもいいの?」僕は両親に訊いた。父は黙って頷いてくれた。 「あんた、お金は大丈夫なの?」母は訊く。 僕が仕事を辞めたことは知られたらしい。だいたい察しはついてただろうが。 手足が無いからって甘えんな、とか父に言われるのかと思ってた。 「大丈夫ではないかな」と僕が苦笑いを浮かべると、 「これ持ってけ」と、父が僕の胸の辺りに何かを押し付けた。 164 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:44:13 ID:zmKypy7U 「何これ」どう見ても財布だった。父の、ぼろぼろの財布だ。 「黙って持っていけ」 「そんなことしてもらわなくても、何とかするって」 「大丈夫だ。免許証は抜いてるから、受け取れ」 「そういう問題じゃなくて」 「俺だって一応お前の父親なんだ。たまには親のいうことを聞け。アホ」 言いながら、財布を胸に強く押し付ける。 「どうせ、大して入ってないんだろ?」僕は照れ隠しで言った。 「当たり前だ」 「ありがとう」 変な気分だ。胸に何かが詰まったような、何とも言えない気分だった。 そしてどうやら、恐れていた事態は回避できたらしい。 むしろ、関係は良好なほうへ向かっているように見える。 165 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:46:35 ID:zmKypy7U 彼女はいったい何を話したんだ? 僕は考えながら、玄関まで這うように進んだ。 それから彼女の力を借り、車椅子に跨った。 彼女は三和土を踏みしめ、車椅子を外に押す。 カラスとひぐらしの鳴き声に鼓膜を揺すられ、蒸し暑い空気に包まれた。 日は沈みかけていて、空は濃い灰色をしている。 僕の目が正常だったなら、きっと綺麗な夕焼けだったんだろう。 「またね、兄ちゃん」妹は小さく手を振った。 「いつでもおいで」祖母は笑う。 「たまには帰ってこいよ」父がそう言うと、 母は父の顔を覗き込んでから、僕に微笑みかけた。「またね」 「うん、うん」、としか返せなかった。 どんな言葉も喉につっかえて、うまく吐き出せない。 そんな中途半端な返事をして、僕らは帰り道を歩き始めた。 僕も彼女も振り返らなかった。振り返ってはいけない気がした。 166 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:47:36 ID:zmKypy7U しばらく歩いてから、僕は疑問を口にした。 「なあ。いったい、僕がいない間に何を話したのさ」 「んー。何って、ちょっとした昔話を、ね」 「昔話?」 「わたしが昔からどれだけ君を見てたか、って話。 わたしがどれだけ必死だったか、君にも見せてあげたいよ」 「ごめんよ、迷惑かけちゃって」 「今更こんなこと、大したことないって。わたしも好きでやってるんだし」 「ありがとう。でさ、もうひとつ気になってることがあるんだけど」 「何?」 「どうして僕は追い出されたんだ?」 167 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:48:21 ID:zmKypy7U 「そりゃ、子どもに見られたくなかったからでしょ」 「何を」 「父親が泣いて頭下げてるところ」 「冗談だろ?」 「君は冷たいなあ。あんなにいい人なのに」彼女の声は震えていた。 「なに泣いてるのさ」 「泣いてない」鼻水を啜る音が聞こえた。 「分かってもらえて良かったと思ったら、ちょっと安心しただけよ」 「そっか」 168 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:48:58 ID:zmKypy7U 僕は握り締めたぼろぼろの財布の中身を覗いた。 そこで思わず吹き出してしまった。父は嘘を吐いていたのだ。 「何が“大して入ってない”だよ。こんなに入ってるじゃないか……」 「泣いてるの?」 「泣いてない」僕は鼻水を啜った。でも堪えきれなくなって、崩れた。 「ああ、糞。卑怯だよな。こういうときだけ優しくしちゃってさ」 「そうだね」 もう一度、顔を見せに行かなきゃならないなと思った。 今の僕らは、はたから見れば、見世物にでも見えるのだろうか。 今更恥ずかしくも何とも感じなかったが、彼女には悪いなと思う。 そのとき、ふと目に映った滲んだ太陽が、 子どものころに見たような、鮮やかな光を放っているように見えた。